感想、僕なりの考察

 こんにちは。ゆーすけです。PLAY THE BASEBALLを書かないといけない。現在2名の方にお話を聞くことができてある程度まとめることができてきているのですが、なかなか書き上げられず申し訳ありません。今回は全く野球に関係のないことですがリアルタイムに書いておきたいことで。本当に、そして完全にゆーすけの趣味のことなので読みたい方だけ読んでください。今の感想と考察を覚えているうちに書いておこうと思いました。

 それは2021年3月8日に公開となった、「シン エヴァンゲリオン」です。かれこれ16年程度エヴァは追い続けてきました。この記事はネタバレも多少含みますし、あくまでゆーすけの勝手な考察なのでまだ本編を見ていない人でネタバレしてほしくない人は本編を見てから読んでもらったほうが良いのかなと思います。もしかすると本線の野球記事よりも長くなるかもしれないです。それでは自分なりの感想と考察を書いていこうかと思います。

 まず、ゆーすけがエヴァに興味を持ったのが2005年ころです。入りはパチンコで先輩に勧められて打ったのがきっかけですが、レイちゃんに一目惚れをしてそこからアニメを見ていきました。その翌々年に新劇場版が開始。エヴァを何度も見ている方からすればほんとににわか程度の知識ですが、すごく楽しませてもらっていました。そんなゆーすけが今回の映画を見終わった直後の感想としては、「ん~。もう1回見に行きたいとは思わないな~。」が正直な感想でした。後半で話していこうとは思いますが、なんかエヴァっぽくない。良くも悪くもわかりやすすぎるというか、親切すぎるというか。今までの伏線をきれいにほとんどのことを回収してくれたというか。もっと「あーじゃない、こーじゃない」と話したかったのにな。というのが感想でした。あと、庵野監督が「これできれいに終わりにできたでしょ?だから今回でエヴァは本当に終わり!!」って言われているような感じもしました。だから物足りなく感じたのかなー?ゆーすけが公開時間前にロビーで待っていると見終わったお客さ案の会話が聞こえてきました。「マジでよかった!何年間も待った甲斐があったわ!!」と興奮気味に話してました。こちらもそれが聴こえてしまうとハードルは上がりますよね。でも自分が見終わった直後に感じたものはそうではありませんでした。今までのエヴァが伏線をちりばめて考察できるような内容をたくさん残して終わるやり方が「攻めている」と考えるのであれば今回の作品は「置きに行っている」と捉えられるし、今までの作品が解決しないまま終わしていることで「逃げている、置きに行っている作品」と捉えるのであれば今回の着地が見えた作品は「攻めている」と捉えられるような、ストーリーはつじつまが合って終了したが真逆のテイストだなと感じました。見ている途中の感想としてはレイちゃん(綾波タイプ)が畑や田んぼで仕事をしているシーンで帰り際に笑うところは序の最後、シンジ君に「笑えばいいと思うよ」の後に見せた笑顔のオマージュ。トウジの家でレイちゃんが味噌汁を飲んだところは破の海洋生物研究所でシンジが作ってきた味噌汁を飲んだシーン。後半の絵コンテのままのシーンやわざと粗いCGで戦闘をするシーンはアニメ版の最後、ゲンドウやカヲル君とかの補完をしていくシーンはアニメ版のキャラクターの尋問シーンの補足のようなオマージュなど今まで見たことあるシーンを思い起こさせるかのような技法で徐々に「これが本当に最後なんだな」と認識させているように感じました。

 公開前に自分の中で何個か疑問に思っていることがあって。回収されたものが多くありましたが、回収できていないものも多少あったような気もするのでそこらへんも書いていきます。

 ①式波タイプであったということ。惣流はオリジナルタイプ。やはり新劇場版になって式波も量産型ロットになっていたということが明らかになりました。3号機の起動実験の失敗直後、リツ子さんが「大事なサンプル」というような発言をマヤちゃんにしていました。あの時にすでに使途とリリンの魂との融合がなされていたのでサードインパクトを起こせる題材になっていたということですが、そのサンプルと量産型ロットのサンプルでもあったということでしたね。ちなみにその証として式波の眼帯には使途封印文様が刻印されていました。シンエヴァでは眼帯を取り使途を開放するシーンが出ていましたけどね。よくよく考えると新劇場版の登場シーンから式波として登場しているので、新劇場版作成時の庵野監督のパイロットの設定を変えて整合性を図るといった言い方でしかもループ説と考えるとアニメ版の精神崩壊、旧劇場版の量産型エヴァにやられてしまった時から話がつながっている可能性もあるのかなと考えたりしています。

 ②エヴァの呪縛について。エヴァの呪縛って年をとれないというかそんな感じでしたが、どうしたらそうなっちゃうの?ってところで。たぶん、シンクロ率が100%を超えてしまった時に人でなくなるというような発言がありました。人でなくなった時に(人に戻れなくなった時)に歳を取らないエヴァに取り込まれるに近い形(サルベージされるに近い形)にパイロットがなってしまい年齢を重ねられなくなるということなのかなと解釈しています。そのためラストエヴァのない世界に戻ったらみんなちゃんと大人になっていましたしね。

 ③マリはエヴァを終わりにするために必要な登場人物であったということがわかりました。マリの本名はマリアだったということ。キリストが処刑された時に終わりと始まりを見届けている聖母マリアの存在であったのです。そして庵野監督が作ったキャラではないということ。庵野監督は作中でほとんどのキャラクターは自分の心の中にいる人物であり、自分の何かしらの派生を生み出していると発言がありました。マリに関しては庵野監督が生み出したキャラではなく他のスタッフが生み出したキャラクターであったということ。そしてそのキャラクターが庵野監督の作品を終わらせるのに必要な存在であったということです。マイナス宇宙にシンジ君が行こうとするときに「必ずどこにいても迎えに行く!!」って言ってましたね。それくらいマイナス宇宙に入ってしまうと戻ってくるのが大変なところ。その場所でも迎えに行けるってことはかなり重要なキャラ設定であることもわかります。やはり冬月教授の教え子でもありあの時代からエヴァの呪縛にかかっていることもあわかります。映画終盤アスカをケンケンのところに帰して絵コンテになったところでマリが「間に合ったー!!」と再登場。マイナス宇宙のところまで庵野監督自分では助けられなかったところを助けてくれたのは他人が作り出したマリというキャラクターであったということになります。だから最後もアスカではなくマリがシンジ君を迎えに来て駅(電車)から道が選べる外に連れ出したのではないかと思います。その流れでエヴァの作中には電車に乗っている回想シーンがたくさん出てきますが、あれは「定められた運命」という意味合いが大きいのかなと。電車は一度乗ると次の駅までは降りることができません。それと同様に運命を定められた人間のオマージュを用いていますよね。なので最期駅で電車の乗らずマリがシンジ君を連れだすというのはシンジ君も自分で選択して決められた運命よりも自分で決定する→エヴァに乗るしかない運命から脱却でしたという見解になると思います。また、宇部新川駅というのは庵野監督の生まれ故郷。そこが最後に舞台になるということは庵野監督の補完計画も完了したと考えられます。たぶん庵野監督と安野モモコさんの夫婦も監督と作家という関係ではなく夫婦に戻ったと思われますね。

 ④「Q」と「シン」は復興をねがった再生の映画であること。3.11から10年が経ちました。「Q」約9年前。まるで東日本大震災が起きた後の日本のようなニアサードが起きてしまった世界。そこから補完計画を進めたいゲンドウをヴィレ。福島の原発事故などを必死に抑えているようにも見えます。また、2021年になった今年10年に「シン」が公開され、一足先にエヴァの世界では元通りの世界に戻りました。少しずつ復興が進みつつある日本を応援してくれているようにも見えます。

 ⑤加地リョウジと渚カヲルの関係について。加地さんから「渚司令官」という発言がありました。たぶん。海洋生物研究所が加地さんは一番やりたかったことなのではないかと思います。ヴィレは海洋生物研究所がもとになったと考えられています。そこで加地さんのこれからの生物を残したい。という考え方と、カヲル君のシンジ君を救いたい。だから世界を救いたい。という考え方が合致したのでカヲル君が海洋生物研究所からヴィレを立ち上げる際に司令官となり副司令官が加地さんとなったのではないかと考えられます。まるでゲンドウと冬月の立ち位置にそっくりと感じたのは自分だけでしょうか?また、「りょうちゃんには助けられたよ。」との発言に対して何が?と感じましたが、きっとサードインパクトを止めるために加地さんは命を捧げました。マーク6がカシウスの槍を投げるときに一つの魂が必要となります。そのときの魂を加地さんが捧げたのですが、カヲル君はマーク6に登場していました。サードインパクトを阻止するために加地さんはカヲル君のためにも一役買ったわけです。最後に会話ができていたのはマイナス宇宙。マーク6に取り込まれた加地さんの魂が「Q 」で13号機にコアとなりサルベージされたことによってマイナス宇宙で会話することができたわけですね。

 ⑥ストリー自体は壮絶な全世界を巻き込んだ親子喧嘩であったということ。ゲンドウがネブカドネザルのカギを使用したことでアニメ版のころの記憶や知識も取り入れもはや人間ではなくなっていました。「Q」で覚醒できている13号機に乗り込み初号機と戦う。もはや人間ではない父親と子供が戦う。。。何か見たことあるな。。。スターウォーズ?と感じてしまいました。物理的な決着はつきませんでしたが、ゲンドウはシンジに対してATフィールドを展開してしまう。その時点で人類補完計画は未完成のものとなりました。シンジがゲンドウに対し興味を持ち、ゲンドウは自分を知られることを怖がってしまった。シンジは自分の弱さを劇中内で認めていき、父親へ諭すような話かけをしました。ゲンドウもまた決められた電車から降りていきます。その瞬間ゲンドウの補完計画からユイの補完計画に切り替わりました。「そっか。父さんは母さんを見届けたいだけだったんだ」というような発言がありました。ユイもそれを願っていたのだと思います。

 ⑦シンジは誰の子供だったのか?この点だけははっきりとしないまま終わりました。自分の中でQの作中、冬月と詰め将棋をするシーンがありました。「31手目に君の詰みだ」と冬月から話があるようにQのその発言から31分後にシンジは終わりを迎えます。ですが、なぜゲンドウも処分してしまった写真を持っていたのか?またわざわざあのシーンをわずか2時間半の中であんなに長く差し込む必要があったのか?そして冬月はなぜあそこまでしてゲンドウのサポート役に回ったのか?そして「シン」の冬月の最後、「これでよかったんだな、ユイ君」と行って冬月はLCLになります。自分の考察では実は冬月とユイの間に生まれた子がシンジであって、その罪悪感からゲンドウをずっとサポートしたのではないか?アメリカの映画などでは親子でキャッチボールなどをしてハッピーエンドなどのシチュエーションが用いられます。そのオマージュとして冬月(父親?)との将棋のシーンが差し込まれたのではないかと考えていました。「君と話ができてよかった。こんな老人に時間を取ってもらってすまなかった」と話す冬月はまるで最後に息子と向き合えたような言い方をしていると思いませんか?その点は「シン」でも明らかにされることなく終わりました。そこらへんもマリあたりが何かをにおわせてくれるかと期待していたのですが、今回はすべてハッピーエンドということでそこらへんに触れずに終わったのかなとも考えられます。

 以上がゆーすけのエヴァを見た考察です。最初に映画を見終わった感想を書きましたが、2~3日経って他の方の考察などを見させていただきながらいろいろ考えるともう一度見てみたいな。というのが現状の感想です。ただ、エンドロールの後、「終劇」と出てしまった悲しさ。本当に終わっちゃうんだ。「予告」っていつも出ているはずなのにってむなしさは今でもあります。カヲル君が劇中で「君はイマジニアリイではなくリアリティの中ですでに立ち直っていたんだね」という言葉がありました。それが今回のエヴァのすべてだと感じます。自分をはじめエヴァに取りつかれていた人たちに庵野さんは「もうエヴァが無くても生きていけるでしょ?君たちはしっかりと歳を重ねている。自立しなさい。」と庵野監督自身も含め言いきかせているのではないかと。もう、創造・虚構(エヴァのアニメ)の世界は必要ない。そのころのチルドレンはもう立派な大人になっている。今度はあなたたちが人を助ける番だと。エヴァがこれ以上進展なく話が進めないのは楽しみがなくなってしまった気もしますが、このメッセージを受け取ったと考えてまた今日から自分なりに自分らしい生活をしていこうと思います。

 10年前の今日、3.11に被害にあった方々、今でも大変な生活に苦しんでいる方々の今後より一層の復興を願うとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りして感想・考察とさせていただきます。

 今後より良い日本、平和な世界になりますように。

 最後まで読んでくださってありがとうございました。それではまた~。

          ゆーすけ16


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