PLAY THE BASEBALL!!
こんにちは。初めまして。私はゆーすけと申します。Twitterで草野球のことを投稿してまして、もっといろいろな形で皆さんが草野球をはじめ、野球全般で楽しめたらいいなあと思っていたところ、知り合いからnoteというものを紹介され、ここでいろいろと書いていこうかと思っています。
まず、ゆーすけはピッチャーなので、ピッチャー中心の書き込みになりますが、今まで経験してきたこと、技術的なことも含めて書いていきます。
皆さんに文書を読んでいただくにあたって、ゆーすけがどんな人物で、どんな球歴なのかを#1では紹介できればと思います。noteではゆーすけのこれから来るであろう野球の全盛期と読んでくださっている方の技術の向上もできればと考えていますので、質問などがあれば、自分の経験や知識はもちろん惜しみなく、自分でもわからないことがあれば知人や書籍等を通じて学ばせていただきお答えできるようにしてまいりますね。最初に言います。自分の目標はもう一度140キロを出すこと!先日36歳になりましたが、まだまだ衰えるつもりはありません。それどころかこれからまだまだ成長していくつもりです。皆さんといろいろ話をしながら成長していければと思いますので、よろしくお願いいたします。
前置きはそれくらいにしておいて、ゆーすけの旧暦を紹介したうえで、次回以降お話ができればと考えています。
1984年生まれの今年36歳になります。
小学生時代は県大会に何とか出られるようなチームで最終学年にピッチャーになりました。特に球が速いわけでもなく。でもストライクが入らないということで困ったことはそれほどありませんでした。
中学生時代はキャッチャーをやっていました。自肩だけは強かったようで、たぶん遠投は80mくらいかな。打順は5番バッターで、足は遅く、長距離を打てるバッターではありませんでした。最高順位は県大会準優勝。一つ上の学年で敵チームにいた畠山投手(横浜→日大→SUBARU)から予選でサヨナラヒットを含む2安打。なぜか相性が良かったようで。自分の学年の時には特に目立つ選手ではありませんでしたが、高校の野球推薦を10校くらいかな?からいただいた記憶があります。本当に目立つ選手ではありませんでした。
高校時代は完全に補欠ですね。とある県立高校に入学。入部3日でキャッチャーのポジションはクビ(笑)。そこから半年以上ポジションも決まらず、秋にオープン戦で埼玉栄高校と試合をしていた時にうちの高校のピッチャーが打ち込まれ当時バッティングピッチャーだったゆーすけが急遽マウンドへ。なぜか6回3安打で押さえてしまうというノンプレッシャーのビギナーズラック。翌日から投手としてポジションを与えてもらえましたが、マウンドさばきなど投げる以外のことはほぼほぼ素人。監督さんにいろいろ教えてもらうもまず何を言っているのか理解ができず。球速こそ136キロくらいまで出ましたが、試合にはほとんど出れず。というか出れるわけないですよね。その時の状態のゆーすけを今の僕が監督でも絶対にマウンドには上げません。何とか3年の夏はベンチ入りはできました。チームはというと甲子園に出場できたもののもちろん試合出場機会は無し。ここでゆーすけの野球人生は終わるものだと思ってました。やったとしても草野球。適当に野球で遊ばればいいや。くらいにしか考えていませんでした。
甲子園に連れて行ってもらえただけでも十分ですよね。自分で言うのも何ですがここからゆーすけのシンデレラストーリーが始まります。
高校名までは伏せていますが、球歴に関してはここから実名を挙げていこうかと思います。
専門学校・クラブチーム時代。中学校の3年の時に祖父が他界。実家で受験勉強もかねて認知症の祖父の部屋で夜中勉強していたゆーすけは15歳にして完全な甘い考えで介護士になろうと将来を決めていました。そのため、専門学校は中央福祉医療専門学校で介護福祉士を取得するために進学。その時に母親の会社の営業さんがたまたま栃木県足利市にある「全足利クラブ」の元選手でその方の紹介で取りあえず、足利市に見学に行きました。2月くらいだったかな。その時はとりあえずブルペンで監督さんに見てもらい、入部も何も聞かさないまま帰宅。翌日マネージャーさんから連絡をいただき、3月のオープン戦、対白鴎大学とやるからそれまで毎週練習に来るように。との連絡をいただきまして、毎週足利に電車で通いました。先輩方がものすごく優しい方ばっかりで、現足利の監督の椎名さんをはじめいろいろと面倒を見てもらいました。そして3月のオープン戦、白鴎大学戦で2番手で5回から5回2安打無失点とまたまたノンプレッシャーのミラクル。当時の白鴎大学には飯原選手(白鴎→ヤクルト→栃木GG)もいたりして。それでも何となく抑えられてしまったのです。その日から全足利の入部が決まり、活動をさせていただけることとなりました。それと同時に専門学校では福祉の専門学校なのですが、「甲子園に言ったやつが入学してきたらしい。そしたら野球部作っちゃうか?」的な軽いノリで中央福祉の野球部も発足。こちらでも先輩方に恵まれ、なんと創部1年目にてまさかの全国大会出場。肝心の足利ではというと1年目はクラブ選手権の初戦と準決勝に登板機会を与えてくださり、14イニングで失点1という去年までは考えられない成績で1年目を終えました。
軟式と硬式を毎日かわるがわる投げていてもその時は全く違和感なく投げられていましたね。そして転機となった2年目。中央福祉の野球部は関東大会で負けてしまいましたが、足利のほうはクラブ選手権で日本一を勝ち取ることができました。その年には今後お話しできると思いますが、千葉ロッテマリーンズで活躍していた岡田幸文君も同い年で一緒に野球をやっていましたよ。この時はまだ、クラブ選手権の優勝チームが日本選手権に行けるというルールがなかったので日本選手権には出られませんでしたが。。。そんなこんなで、1年目の終わりには教育リーグでヤクルトスワローズの2軍と試合をさせていただいたり、(その時の1番バッターは青木宣親さんでした)いろいろ経験させていただいて、スカウトの方も少しだだけ気にかけてくれているとかないとか話がありました。初めてプロ野球を職業として意識はしましたね。
でも、2年目あたりからあった右ひじの違和感が4年目のシーズン途中にして爆発。整形外科には通いヒアルロン酸みたいな注射とか痛み止めのブロック注射は討っていましたがまあ、靭帯切れてましたね。今はやりのトミージョン手術です。1年間リハビリしてました。その間にプロの話はどこへやら。その後仕事をしながら野球は続けましたが、球速も戻らず24歳にしてクラブチームを引退しました。
引退した翌日に高校の先輩から電話があり、「うちのチームで野球をやろう」と草野球のお誘い?というかこちらは強制入部(笑)。またそこから6年間そのチームで野球をやらせていただくわけですが、その時には高松宮杯に出場もすることができ、楽しく野球をやらせていただきました。ですが、草野球のチームのベクトルを常に合わせているのって本当難しくて、野球をやっていて先輩たちに叱咤激励を受けているはずなのに、それが本当に受け入れられなくて。なんかそのチームに行きたくなくなっちゃんですよね。仕事も少しずつ責任ある業務につかせてもらってきているのも言い訳にそのチームを退部しました。
自分が足利時代からピッチャーとして師匠と仰いでいる人が群馬県の太田市でやっている野球チームに以前のチームを退部して1年くらいたったころに入部させていただいたのが、今所属している「太田サンディーズ」です。正直レベルは今までいたチームよりも低いかもしれませんが、今のサンディーズはなぜか強い。なぜかというのも後日お話しします。今日は自分がどういう球歴なのかなので。
というわけで今は群馬県太田市にある「太田サンディーズ」というチームで活動させていただいています。
一度トミージョンを得て、草野球に行き、36歳にして球速が135キロを超えることろまでまた復活してきました。人間ある程度限界はないものなのかな。そして、どの転機で人の人生が変わるのか?なんてわからないものですよね。18歳のころ、ゆーすけが18年後こんなに野球が好きでいられるなんて誰もが思っていませんでした。高校のころ野球嫌いでしたから(笑)。でも今はやばいですね。野球大好きです。仕事も「野球やってるから仕事がおろそかになる」とだけは言われないようにひたむきに仕事させてもらってます。
ざっくりですが、ゆーすけの球歴を紹介させていただきました。自分で勝手に言っているシンデレラストーリー。なぜそのようなことが起きたのか?足利時代に何があったのか?どうやって投げるだけの人間からピッチャーになれたのか?こんな話や、これを読んでいる皆さんも興味があるであろう「岡田幸文」という人間のこと、球速アップのこと、指導の仕方、投球の考え方などなど。書きたいことはたくさんあります。僕もまだまだ成長します。皆さんも一緒に成長してみませんか?
もしご質問等ありましたら全力で知っている限りのことはお答えしていこうと思いますので、コメント等いただけたら嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう!では、また~!
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