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実家その後。あれから最近まで。

noteはずっと読み専門でした。
久しぶりにいろいろ書きたいと思い立ち、約2年ぶりに再開します。


元々は、コロナ禍で母が実家で倒れ救急搬送、コロナと判明したところから始まりました。

あの時期は思い返しても時間間隔がおかしな時期でした。
一体全体、あの騒ぎは何だったんだろう。
それによって、なくしたもの、得たもの、考えることがたくさんありました。

ともあれ、少しずつ記憶を起こしながら、備忘録として残していくつもりで、書き進めたいと思います。
最後に、現在の実家のことも書いておきます。
ここも、今年大きく動くことになりそうです。


2021年3月、自宅で倒れ救急搬送、病院検査でコロナ陽性と判明した母。
コロナ=こわいという世間。あの報道は何だったんだってくらい。
ワクチンもなく、当時は様々な規制が最も厳しかった頃です。
父とともに2週間の隔離生活が始まりました。

保健所からはその日の夜に連絡が来て、罹った経緯を聴かれました。
父と私の検査も必要とのこと(任意ですが)で、経過観察の方法も教えてもらいました。
翌々日には母の「入院勧告書」的な封書が届きました(入院済みなのに)。

我が家にも帰れませんでした。
当時、オットは単身赴任で自宅から車で6時間の町にいましたが、
両親の様子を聴いて、すぐに戻ってきてくれることになりました。
2週間、有給を使い過ごしてくれました。

当時、家には小学6年生の息子、高校1年生の娘がいました。
オットが帰ってきてくれたので、まずは一安心。

問題は父でした。
父は数年前に脳梗塞で倒れ、高次脳機能障害が残りました。
体はまぁ動くのですが、言語障害もあり、言葉で意思を上手く伝えることができません。

食事は買い物にも行きにくい状況で、オットに買い物を頼んだり、
親戚や遠方の姉からも、お見舞い代わりの食品を送ってもらいました。


なぜそんなに大変なのかというと、
当時の実家は水道が使えず、煮炊きができなかったのです。
その年の冬は寒くて、水落しをしていたにもかかわらず、水道管が破裂。
母が修理業者を呼ぶのをいやがり、春になったら呼ぼうということになってました。

お風呂は、父はデイサービスで週2回のお風呂がありましたが、
母は車で1時間以上かけて、わたしの自宅で入ってました。

さっさと直せばよかったのに。
なぜしなかったのかというと、実家がものすごい荷物の山で、母は片付けられない人だったからです。


実家にいてもくつろげず、わたしも実家にあまり寄り付かなくなり、
食材などの買い物を週に1度持っていくくらい。
中でくつろぐどころの騒ぎじゃありませんでした。


そんななかでの、コロナ罹患。
人生が大きく変わるのは、実はそんなところからでした。





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