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宿る記憶・椿の庭

写真家、上田義彦はかつて暮らした自分の街で、ある日、今まであった近所の木造民家と大きな庭木が伐採され更地になっていたのを見て、自分の家の庭にいつも春になると咲く乙女椿、その花もいつか、見られなくなる日が来るという喪失感に襲われたのでした。そしてその時の想いを文章に書き始め20年の時を経て、初めての映画作品『椿の庭』が生まれました。

海の見える高台、古い木造の家で暮らす祖母と孫娘、そしてそこに訪れる人々を描きます。祖母が世話をする庭には色とりどりの草花が咲き、季節のうつろいとともに変化する家族の一年を、実際に撮影で費やした一年の四季と自然の光のみで映像を美しく描いています。物語は、家族というよりも、人生の晩年を迎えようとする人間とこれから始まろうとする人間の両極の命を、あるいは閉じていこうとしている命と、これから咲こうとしている命との織りなす時間を、ひとつの家の中で見つめ「身近なところにある真実」を映します。

この映画は日本で2020年4月公開されたのですが、アメリカで公開していないので私は見ていません。けれど、彼の画像やこの映画への想いなどが、大きく響きましたので、私の記憶と共に今月の話にしたいと思います。

私の祖父母の家は東京、杉並区にあり、昭和初期に建てられた木造の平屋でした。子供の頃の記憶がこの場所に散りばめられています。庭で植木の手入れをする和服姿の祖父が見えます。縁側の木床は滑り、直線なので兄弟、従兄弟たちで走りまわっていました。危ないと母や祖母に怒られました。大きな丸石が縁側の外に庭に置かれ、家に入るときにそこで靴を脱ぎます。脱ぎ方が粗雑なので(大人はきちんと脱いで靴を揃えるのが習慣ですが。)、小さな靴たちが庭に落っこっていたりして、縁の下に顔を覗かせて靴を探しました。家の格子戸玄関から迎えに出てくる祖母の姿を今も鮮明に覚えています。あれからその家は取り壊され、敷地には私の弟家族や従兄弟の家族のそれぞれの家が新しく建ち、それぞれの新しい家族の歴史に変わってゆきました。

長く住めば住むほど、家には重ねられた歴史が作られ、随所に記憶が宿り、大切なモノたちに住む人の魂が宿ります。確かにあった時間を、モノが刻み、人がそのモノからまた記憶を呼び起こし、懐かしく思い出すのです。時には温かく、時には悲しく。そのモノによる記憶は正確に鮮明に新たな記憶となるのです。人はその断片を求めてそこに帰りたいと願うのだと思います。

そしてまた、家は日々の幸福のために住み継いできた場所として、日常の些細な出来事が続くよう季節が巡り、庭の花が咲き、朽ち、その場所の小さな営みや、生と死の連なりの中、家も尊く時間が過ぎてゆきます。

存在するという明日があるとも限りません。主人のいなくなる家もやってきて、主人のいなくなった家は壊されて消えることもあるのです。私たちの時間は懐かしむ記憶と現実に起こる喪失感を日々認めながら過ごすのも日常なのです。

今住む、チェスタータウンの民家は築120年、以前住んでいたブルックリンのブラウンストーンビルは築150年、数十年前に日本、桐生で事務所兼店を構えていた場所は築90年、それぞれ伝統的建造物群保存地区に指定された場所にあります。人が変わりながらも建物は保存され、修繕され、随所に記憶を宿し、モノたちが歴史を引き継ぐ場所です。私は縁あって、その知らないモノたちから宿った記憶を受け継いでいます。歴史の道程の断片でそのモノたちと共に過ごしているのだと思いました。

コロナ禍以来何回か、日本帰国の予定を立てていましたが、また秋の帰国を予定を立て直す事になる予感がします。ワクチン接種効果でコロナ感染も減る方向に見えましたが、希望的観測かもしれません。私の母、かつて賑わう家族がいた家を、今は静かに一人で守る日々、そんな母の姿を遠くで想います。見えないウイルスに対して、各国、各州の対応の温度差と刻々と変わる実態に思惑します。今しかないこの時間に対して判断を拱いて、過ごしているような私です。

椿の庭でも登場する金魚は夏の風物詩。昔はどの家でも金魚がいましたね。今月は金魚を描いてみました。

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