溢れだし、泳ぎ続ける魚たちへ
1/10、MKMDCの本公演「LAST BLACK FISH」のB公演を観てきました。(仕事と自分のリハのスケジュール的にAは行けなかった…)
個人的に、
●企画的ときめきポイント
●ダンス公演的ときめきポイント
●友達的ときめきポイント
が詰まった公演だったので、もう1週間たってしまったけど書き残しておきたい。ちなみにものすっっっごい長い。
ちなみにちなみに、終演後は正直「…???」だった。たぶん自分の中で情報が整理できてなかったんだと思う。
※以下はわたしの勝手な妄想と感想です。
●企画的ときめきポイント
舞台というものは「劇場という"閉ざされた箱"の中で、その場にいる人しか味わえない空気や生身の表現を演者と観客が共有することで、共犯者的な感情やライブとしての感度が得られる」ものだと思っていた。特にダンスは肉体そのものをみせる表現であるために、良くも悪くもある種の閉鎖性が強いものだと。(もちろん劇場以外の場所でやる公演で素晴らしいものはたくさんあるけれど、わたしはあの"箱"という空間も含めて大好きなので今回はこれを前提に話を進めさせてほしい)
今回の「LAST BLACK FISH」の企画としてのおもしろさは、その"閉鎖性"をあっさり超えているところと、それなのに"共犯者感"をそこなっていない(それどころか強化されている気がする)ところにある。
ある日突然Twitterのタイムラインにあらわれたアカウント、「※黒い魚※」。
それと同じタイミングで、LBF出演者のお友達のTwitterの名前とアイコン写真が続々と「透明な魚」になっていった。毎日少しずつ更新される「黒い魚」のアカウント、「黒い魚」のツイートに対してリプする「透明な魚」。
突如魚があふれだしたタイムラインを見ての感想は、「舞台が日常に侵食してきた…」だった。
わたしにとって「舞台を体験する」ことは「劇場へ足を運ぶ」こととほぼイコールで、会場アナウンスや5分前ベル、幕が上がって舞台が始まる前の一瞬の静寂なんかとセットになっていて、その一連の手順を踏んで物語の世界に行くものだと思ってたから、通勤途中の電車内で舞台が始まるなんて反則だよ反則。(※褒めてる)
そりゃあ、これまでも出演者のSNSでストーリーや写真で舞台の事前情報を見ることはあったけれど、それはあくまで「告知」として整えられたもの。でもこれは違って、いつものわたしのタイムラインに突然あらわれる魚たちはすごくリアルだった。あまりに平然と日常に存在してくるのがなんか怖くて、しばらくアカウントをフォローできなかったくらい。(結局フォローしたけど笑)
一方、「透明な魚」であるところの出演者のツイートは「黒い魚」への回答だったり日々のつぶやきだったりするわけだけれど、公演リハも大詰めの時期に流れてくるつぶやきを見ると、「こんな風に作品に向き合ってるのかー」「この質問にこの人はこう答えるのかー」と思ったりする。
「黒い魚」と「透明な魚」のやりとりを自分のタイムラインでのぞき見しているような感覚が、劇場に行くまでの2週間、わたしの中で絶妙な共犯者感を育んでいた。この圧倒的な生々しさ、本当にすごい。もはやダンス公演じゃなくてアトラクションに近いUXじゃないですかこれ。耕さんお話したことないんだけど解説聞きたすぎる…。
まだ書きたいことあるけどこの時点ですでに1300字を突破し、キリがなさすぎるので次にいく笑
●ダンス公演的ときめきポイント
まず、開演前にわたしが「ひええ」となったパンフレットを見てほしい。
「あらすじ」ではなく「設定」。
これを読んだとき、「”設定”の先の物語は、ダンサーひとりひとり、観客ひとりひとりが紡ぐんだよ」ってメッセージだと思ったんだけど、これってダンサーのことも、観客のことも信頼してないとできないことだと思うし、ダンス公演でないとできないことだと思う。
これがストレートプレイのお芝居だったら、観客の多くはおおよそ同じストーリーを追うことになる。なぜなら言葉をつかうから。
言葉を使うということは定義するということだからどうしても意味が限定されてしまうけれど、ダンスはその点自由度が高い。(なんかこの話前にもどこかで書いた気がしてきたな…)
そしてここにきて、わたしの中で「LBFが日常に侵食した」ことの真価が発揮された。目の前のスクリーンで優雅に泳ぐ黒い魚の映像。水槽の外から黒い魚を見ている気分になっていたら、世界がぐるっと回った。
うまく表せないのだけど、
「わたしは今まで「黒い魚」と「透明な魚」を外から見ていたのに、黒い魚と対面している今のこの状況、これはまるでわたしが「透明な魚」じゃないか…!今までわたしはわたしの中の「透明な魚」を見ていたのか…!」
みたいな、ひとつの枠を超えてしまったみたいな気持ち。
この不思議な「入れ子構造」、公演中も何度も体験することになった。
舞台上手のカーテンの奥にある空間には男性がいて、ガラスごしのこちら側に語りかけてくる。魚たちがこちらを見据えて数えてくる。上から吊るされた不規則な丸い照明は水の中から見た泡みたいで、魚が吐いた泡が上にのぼっていく。枠のこちら側にも向こう側にもなれる。
これらの演出で客席→舞台の一方向になりがちな意識がぐるんぐるんされたおかげで、LBFではわたしは「黒い魚」でもあったし「透明な魚」でもあったし、それを外から見ている観客でもあった。
「透明な魚」が目の前を泳ぐのを見たし、「透明な魚」として見られたし、「黒い魚」と「透明な魚」の対話を見た。こんなに自分が物語の「内側にいる」「見られている」感覚が強くなったのは初めてだった。これダンサーとして踊ってるみなさんはどんな感覚なのだろうか…。
それに加えてダンスよ。
今回のLBFが素敵なのはやっぱりこれがダンス公演なことにあると思う。
個々で推したいポイントはたくさんあるのだけど(うえたすのシャボン玉とか笑)、魚たちひとりひとりの切実さや空間の質感が素敵だった。
MKの作品に出るダンサーはスキルもすばらしいし、「なぜあの振りを踊ったあとにそのジャンプができるのか…」みたいな振りも踊りこなせる肉体もおもちなんだけど、でもそれだけじゃなくて。
視線の先や指先にこめるものが、空間に放つものが、とにかく密度がすごい。それはきっと「透明な魚」たちが「黒い魚」とTwitterでリアルに接してきていて、”設定”についても”質問”についても考えて考えて、そのうえで「透明な魚(≒自分)」はどうなのかを踊りで示してくれているからだと思う。
さらに、ダンサーそれぞれの表現の密度が高いことがダンサー同士にも作用していて、「全員が踊る」ことが単なる足し算ではなくかけ算になっているのがひしひしと伝わってきた。
全員が踊るってことは全員が全員を見るってことだ。うえたすのシャボン玉を、ちぇりさんの存在を、くわの視線を、すみえの踊りを、のりこさんの声を、全員が見て聞いて感じたあとに繰り返される「踊りなさい」からの全員のダンスったらもう…!
わたしでは文章力が足りなくて書けないけれど、最近みたラストシーンの中でいちばん好きだった。
開演直後に泣いてるひとたくさんいたけど、あんな風に舞台上で生きてるの見せられたら、それがあんだけの人数いたらそりゃそうだろと思った。
SNSの感想を見ていても、理由もわからず涙が出たってひとがたくさんいて。それはその場で言語化できないほど心が揺れて、出力先が涙しかなかったからではと思うので、踊る側からしたら「なんかわかんないけど泣けた」ってすごい嬉しいほめ言葉だと思う。
「黒い魚」の質問にひとつずつ答えていくたびに、身体はどんどん動かなくなっていくはずなのに心は自由になっていくみたいな不思議な感覚になり、見終わったあとなんかスッキリしていた。 いいなあ長編のダンス公演。
●友達的ときめきポイント
MK界隈にだいぶお友達が増えてきたので、「友達がたくさん出ている舞台」としてもLBFはすごく楽しかった。
やっぱり印象的だったのは質問③。実はこのツイートを見たときから、このシーンはくわなつが来るだろうなと思ってたけれどやっぱりだった。
正直、このシーンを見るまでは「ダブルキャストってなんだよ!友達みんなまとめて見たいよ!」って思ってたけど、質問③のくわを見ていたら「ダブルキャスト…すげえ…」ってなった。
画面の先に、くわの後ろに、踊りの向こうに、相方のなっちゃんの姿がみえて、ひとりなのにふたりで踊ってるみたいだった。AとBはふたりで1匹の魚だとくわが言っていたけれどその通りだった。
AとBはたくさんの時間や思考を共有してきたのだろうけど、それでもAB全然違うとみんなが言うのはやっぱり別の人間だからだよな。本当に本当にAも見たかった…。
「黒」と「透明」に関して
その他とても印象に残っていることが2つ。
1つめは以下のツイート。
印刷色では三原色のシアン、マゼンタ、イエローの他に黒があって、その理由はCMYをまぜると理論上は黒になるはずなのに実際はよくわからない色になっちゃうかららしい。新人の頃それを聞いてから、わたしにとって「黒」は「わざわざ作った色」で、実存在というより概念に近いものだった。「透明」もそうで、「透明色」というものは厳密には存在しなくて、色というより状態を指している気がする。
もちろん黒には病に冒されているイメージもあるけれど、「黒」と「透明」をもっと概念的なものとして捉えると、インターネットの海を自由に泳いでいる姿や、副題の「溢れ出す透明な魚」もしっくりくる気がして。ダンサーの頭のなかのイメージがその肉体に溢れ出して、それがあの空間に溢れ出して、観客の頭のなかにも染みこんでくるみたいな感覚だったから。
完全に余談なのだけど、「黒い魚」と「透明な魚」の交流が深まっていくのを見て、CATSのグリザベラとシラバブの関係を思い出した。人生の酸いも甘いも知り尽くした老猫のグリザベラと、生まれたてのふわふわなシラバブ。一見正反対のような2匹だけど、グリザベラに最初に寄り添うのはシラバブで、2匹が一緒に歌うリプライズの「Memory」は本当に奇跡みたいな曲。LBFでも、見た目ではない部分で共感しあう黒と透明の姿が印象的だったんだよね…。
「社会」と「個」に関して
もう1つ印象的だったのは「黒い魚」と「透明な魚」の交流がTwitterというインターネットの中でされていること。
わたしがここまで書いてきたLBFの感想は、SNSが今くらい人びとの中に浸透してないと成り立たないなと思ったし、わたし自身が各種SNSを毎日使ってるからこそこんなに書くことがあるんだなと思ったら(裏垢も持ってるしw)、しおたんさんのこのツイート思い出した。
わたしたちが個々の生き物であり、時代や社会の中に位置づけられている存在でもあるというのは、前回の桜の森をみたときも感じたことだったけど、LBFはそこがよりストレートに伝わってきた。だから儚い、というわけではなくてだからこそ普遍的な物語が生まれると思うのはわたしが楽天家だからでしょうか。
人間が目的じゃなくて社会が目的だみたいな話は落合陽一さんもしてたけどそれに近いのかな…。
音楽や美術が当時の情勢を反映しているように、ダンス公演ももっと、振りの流行りとかではなく作品の底にあるコンセプトのようなもので”この時代ならでは”の要素を追及してもいいのかもしれないなと。CGやVRでほぼなんでも表現できるようになってきたからこそ、「生身の人間が生身の人間に見せるもの」にどんな価値があるのかちゃんと考えていきたいな。わたしダンサーでも演出家でもないけど。
なんかもう感想というかもはや論文みたいになってきたので終わりにしたいのだけど、これを書くにあたりパンフを改めて見てみたら、わたしが感じた世界ぐるぐる、よりによって表紙に書いてあるじゃないですか。
黒と透明は表裏一体で、命が尽きていく「黒」も、まだ生き続ける「透明」も、どちらもわたし。やっぱりこれはわたしの物語でわたしの夢でもあったし、わたしも生きていこうと思った。
さんざん長文書いといて最後が薄いな…笑
「黒い魚」のTwitterアカウントが今でもまだ残っていることが、このLBFという舞台をより現実のものにしてくれている気がする。消えないといいな。