聖書の内容=キリスト意識ではない?その理由とは
こんにちは。
和泉 百々花です。
このマガジンでは、聖ヨハネから預かったメッセージを発信しています📖
主にキリスト意識について書いていますが、歴史的な内容や宗教の要素がゼロというわけでもありません。
苦手な方は、どうぞブラウザバックなさってくださいね😊
本日は、聖書の内容=キリスト意識ではない!ということについて、ご紹介していきますね✨
キリスト教やイスラム教の聖典でもある聖書には、
・神やキリストの言葉
・神やキリストの偉業
・日々守るべきこと
などが書かれています。
ようは、「神の教え」がまとめられたものですね。
しかし、そこに教会の都合や政治的な思惑などが加わって編纂(へんさん)されているため、聖書の内容=全てキリスト意識ではないことに注意しましょう✨
どんな部分が編纂されているのか?
・創世記(旧約の中に2つあります)
・イザヤ書
・詩編
・コヘレトの言葉
・哀歌
・エゼキエル書
・ダニエル書
・ホセア書
・ヨエル書
・アモス書
・オバデヤ書
・ゼファニヤ書
・ゼカリヤ書
など。
新約聖書では、各福音書や手紙の中に、それぞれの内容に半々くらいの割合のようです。
教会&政治の都合だけではない!編纂の目的
聖書の編纂には、彼らのアイデンティティも関係しています。
例えば、創世記。
第1章が後からできたもの、第2章が最初にあったものと言われています。
創世記が2つある理由を、歴史的なことを交えてご紹介しますね😊
この時代は主に「部族間の戦い」がメインでした。
そして、神の定義も「部族の神」だったんですね〜👀
だから、自分たちの部族が負ける=自分たちの神が負けるとなるわけです。
自分たちの信仰している神が負けてしまうなんて、一大事!!!😱😱😱
というわけで、相手の部族の要素を取り入れて第1章の創世記が生まれました〜👏
相手の神の要素を取り入れることで、
部族の神→大いなる創造主
と、その立場を変化させたわけなんですね👀
日本人にとっては、なかなか馴染めない話かもしれません。
私もこの話を知ったときは、とても驚きました🙃
しかし、彼らにとって「自分たちの神」というのは、そこまでしてでも定義を守るべき存在だったんですね。つまり、アイデンティティというわけです✨
もちろん、政治的な要素が皆無というわけでもありません。神の定義を変えることで、部族の人たちが落ち込んだり絶望したりすることを防ぎ、心を守る目的もあったと言われていますよ💖
キリスト意識はどのくらい反映されているの?
ざっくり言うと、半分くらいです。
これは上にも確認しました。
詳しい内容は、別の記事で徐々に紹介していきますね😊