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インディーゲームをやり始めた頃の「ささやかな幸せ」
3年前の下記のツイート。まだインディーゲームをやり始めたばかりの頃。
最近買ったゲームたち、一部は年末セールで安くなってたから買った。全部やりきれんけど持ってるだけでも幸せ。。
— ねこまち中華街 (@nekoMachinegun3) December 29, 2021
(漫画もゲームもアマプラ未視聴もどんどん溜まっていくw) pic.twitter.com/m3eCdjtsFI
まだゲーミングPCは持っていなくて、Switchや10万円くらいのDELLのノートPCで動作が軽いゲームをしていた。
あの頃は今ほど沢山のゲームを持っていなかった。
それでも少ないながらにゲームを持っている事に対してささやかな幸福感があったな、なんて思い出す。
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あれから3年たって、ゲーミングPCも買ってSteamでたくさんのゲームを買うようになった。(セールで安くなるし)
色々なゲームが出来る事ももちろん楽しいのだけど、インディーゲームをやり始めた頃の「ささやかな幸せ」のようなものは今とは別の心地よさがあった。
それこそ、冒頭のツイートにもあった「持ってるだけでも幸せ」。
子どもの時に集めるおもちゃの小さな宝石のような、見ているだけでも楽しくなれるような、そんな気持ちが当時はあったように思う。
実はゲーミングPCを買う時に少し迷った。
そういう「ささやかな幸せ」が無くなってしまう、と分かっていたから。
スペックの高いPCで要求スペックの高いゲームをやる。
要求スペックの高くないゲームでも、充分に整った環境でプレイできる。
ノートPCやSwitchでゲームをしていたころの「ささやかな幸せ」はおそらくなくなるだろうというのは分かっていた。
そうしてゲーミングPCを買った後は「ささやかな幸せ」というのは予想通り無くなってしまった、と思う。
思えば子供の頃は一つのゲームを何十時間もプレイした。クリアした後も何周もしたし、やり込み要素もやり込んだ。
今は一度クリアするか全ての実績の解除や真エンディングを回収するところまでやったら終わり。何度もやったりはしない。
それはやりたいゲームが沢山あるから。
話題に流されがちなところがあるので、話題になったゲームの中で自身の琴線に触れたゲームはやってみたい。
アニメや漫画も同じで、昔は好きな漫画を何度も読んだり好きなアニメを何度も観たりしたけど、今は何度も観返す事はほとんどない。次に触れたい作品が沢山あるから。
大量消費がもたらす一つの側面だとは思う。
単純に話題に流されているだけとも言える。
ただ、そうして今の自分は「気になったゲームは出来るだけやってみたい」という願望の基でゲームをしている。
「ささやかな幸せ」は無くなってしまったけど、今はそういった別種の楽しみがある。
人の娯楽の楽しみ方は千差万別で、同じ人でも時期によって楽しみ方は徐々に変化していく。
「ささやかな幸せ」を感じていたあの頃も好きだけど、今の自分は「気になったゲームは出来るだけやってみたい」というフェーズなんだろうなと思う。
以上。