Echoes of life 所感2
土曜日に広島公演のディレイビューイングを観てきた。さいたまからブラッシュアップしてきただけでなく、いつも以上に全身全霊の演技だった広島。特に2日目はジャンプに苦戦し、会場で観ている方も全身全霊で応援した、その緊張感を思い返しながら観ていた。ディレイビューイングの会場は5.1chの映画館だったこともあり音響も素晴らしく、カメラワークもよく考えられていて会場では見えないアングルや細かい表情も大画面で体験でき、いつもながらディレイはとても有難かった。(アンコールで振った目立たない自分のバナーも一瞬だけ確認できた気がしたくらい解像度も高かった。)ただ、広島2日目は観客の方としてもあまりにも思い入れが強いものになったので、会場で、リアルタイムで体験できたことがどれだけ貴重だったかについても再認識したことだった。
ということで、カメラやマイクで収録できなかったのではと思う点について忘れないうちに少しメモしておく。(いずれマルチアングルが来たら、その2については映像でも確認できるかもしれないが。)
その1。ゴリアテ、全力ダッシュで飛び込むシーンの後。プロジェクションマッピングの映像と共にステージ側へ後退しながら、(広島1日目では高笑いしていた所で)2日目は短く叫んだ。その声はまるで気泡にくるまれるような感じで、気迫と切なさが刹那にミックスされてゴリアテの巨体から漏れたようでもあった。ディレクビューイングでは細心の注意をはらって耳をすませたが、リンク中央付近で天井に向かって発声していたためかマイクでは声を拾えなかったようだ。(或いは、声の音量そのものが元々小さくて、会場では波動としてダイレクトに胸で受け取ったのかもしれない。)
その2。これもゴリアテ、氷上での演技後にスクリーン下のドアの前にうずくまるシーン。1日目はそのまま静かに座っていたように記憶しているが、2日目は体重をドアにかける形で深めに座り込み、ドアが一瞬しなってヒヤッとした。それくらい身体が荒ぶっていたようだった。
ここから続くシーンはライビュ(ディレイビュ)でも再現されたし、具体的には語らない。全ての力を出し尽くした故の無意識の所作だったのか、アドリブではあるが意図的な演出だったのかは分からない。ただ、フィギュアスケートの枠組みを越えた一人のアーティストがライブで演技しているという凄みを感じ、戦慄したことだった...
さて。前置きが長くなったが、ここからが前回の続き、今回の投稿の本編です。今回は、Echoes of Life のテーマ、哲学について。
生命についての哲学。普通に考えると、エンタメのテーマとしては真面目過ぎるテーマだろう。RE_PRAYのリリースで、テーマがゲーム、と言われた時以上に吃驚した。と同時に羽生結弦なら、このド直球のテーマを見事にやってのけるかも、という期待も膨らんでいた。その膨らんだ期待以上のものを創り上げて見せてくれたのが今作だと思う。
哲学というと、高校の倫理社会で習ったことくらいしか知識はないのだけれど、今回のEchoesで思い出したものは2つ。ソクラテスの対話(問答法)。そしてヘーゲルの弁証法。
1つ目の「対話」は案内人さんの登場によりごく自然に行われていたもので、思索を深めていくための基本的なツールとして使われているように思われた。ただし、案内人さんとNovaがその場で言葉を使ってやりとりする場面はなく、Novaの問いに対して案内人さんが魔法のように現れて、導く者としてコメント、Novaは演技でそれに応える(答える)、という独特の「対話」になっている。問いと答えのどちらもNovaから出てきたもので、案内人さんはNovaの問いを発展させ、Novaが答えに辿り着くのを促すことだけに徹している。なお、案内人のいるルームは主人公の内面世界とみなすこともできる。
公演パンフレットで紹介されていた「水中の哲学者たち」を少しずつ読んでいるが、哲学って小難しいと思っていた先入観を取り払い、その本質はとても身近な所にあったのだということに驚かされた。哲学には小難しい一面もあるのかもしれないけれど、本来、今ここに生きている人間の感情を含めて、人間のありように寄り添うものになり得るのだ、と感じたのがこの本だった。この本の中でもEchoesの案内人さんのような位置づけになる哲学者と、一般の人たちとの哲学対話が行われている。問いも答えも、どれが正解とかいうものではなく、それぞれが自分の言葉で考える、という事が大事なんだなと思う。こういう身近な哲学の世界を知ることができて良かった。
2つ目の「弁証法」は直接Echosに登場している訳ではないのだが、「正」「反」「合」と発展することで1段高い所に行ける(図解では正と反の上に合が置かれて三角形が描かれる)、というイメージがEchosの底辺に流れているように勝手に感じ取った。
高校の倫理社会の授業は、新卒の新進気鋭の先生が気合を入れて教えてくれたこともあり、忘れっぽい私には珍しく今でも憶えているのだが、「合」はゴールなのではない。一旦解決したように見えた「合」に対して新たな「反」が出てきて(この時点で「合」がそのまま新しい「正」の位置づけとなる)、新たな「反」の登場によりもう一段高い次の「合」へと進む、その繰り返しによって更に高みに昇っていく、と習った。
Echos の最後の場面は色々な捉え方ができるのだろうけれど、ここで命の答えに辿り着いたということが一つの「合」となって、一段上の次のステージへ進む様子を視覚的に表しているようにも感じた。生きている限り、その先には新たな「正」「反」「合」の繰り返しがきっと待っている、という予感も含めて。
自分なりの解釈で、ストーリー全体について当てはめてみる。
「正」 Novaの目覚め、自分の役目はなんだ、という前向きな気持ち
「反」 段々思い出される過去、世界を荒廃させてしまったという葛藤
「合」 私はひとりではない、命の答え
こうやって言葉として掬い取れるのは極ごく一部の側面にしか過ぎないけれど、広大な物語世界を自分なりに理解しようとシンプルに考えてみたいときに役立つかもしれない。自分がやってしまったのは取返しのつかないことだったという絶望感と、その中から立ち上がって来られた理由が「私はひとりではない」という実感だったということ。それらについては次回の考察(ストーリーについて)とします。