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過去のどこかに未来がある。

新作noteをアップすると、過去に自分が書いたnoteがリコメンドされる。そのアルゴリズムはよくわからないが、3年前の記事を読んで学ぶものところが大きかった。

あの頃の僕は、大切にされたがっていた。「他人に消費されすぎ」と友達から言われていて、その状況はまさに今の自分に当てはまる。同じところをぐるぐるしているなあ、と呆れると同時に、どうすればいいか、その先の答えを別日のnoteに記していた。

誰かが大切にしてきたものを、自分も大切にさせてもらう。そのとき、“する”と“される”はひっくり返るのではないだろうか。「ああ、自分は大切にされている」って。

自分の琴線に触れるモノやコトを、大切にする人がいる。それはつまり「誰かに自分を大切にしてもらっている」ということに近い。そういうものと、人はもっと、つながりたがっているのではないか。

僕が大切にしたいことを、すでに大切にしている人がいると信じる。その人と出会いに行く旅はいつも濃密な時間と豊かな気づきを与えてくれる。

でも、そもそも今の僕って、どんなことを大切にしたいの?そう問いかける過去の僕に、まっすぐ目を合わせられない自分がいる。

より自分自身でありたいと、強く願っている。その「自分自身」とは何か。

解き明かすに値する真実を探求していること。みずみずしい感受性をとおして生きる悦びを体感していること。その隣に分かち合えるパートナーがいること。ときおり僕を頼ってくれる人の悩みを晴らしてあげられること。

南方熊楠の姿がふとよぎる。彼は山奥に篭って粘菌の研究をしながら、日本人の心の拠り所である神社を政府の手から守った人。彼はなぜ、あんなにも粘菌の研究に没頭できたのか。その背景を知らないままでいたことに少し驚く。

今年は彼の研究をしてみようかな。いっときの思いつきかもしれないけれど、真面目に考えてみたいと思う。

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