常体と敬体、閑話休題。
今日は筆休め的な記事。12/31の大晦日から連続で3日間、ブログを書いてみて早速発見があった。それは、文章に応じて「常体」と「敬体」をかなり意識的に使い分けている、ということ。
1/1の記事とこの記事は「常体」、いわゆる“だ・である調”というやつ。一方、12/31の記事と1/2の記事は「敬体」の“です・ます調”になっている。さてなんでだろう、と振り返ってみると、どうやら文章の内容以上にそれを誰に読んでほしいかが関係しているらしい。
常体は、自分に向けて、自分のために書いている。自己内省をからだの外側で行なっているのだと思う。一方、敬体は、あきらかに第三者に向けて、どうぞお読みくださいと意識しながら書いている。そう整理してみると、たしかに文章を書きはじめる際のそわそわの正体は「今回は常体と敬体どっちかなあ」という迷いだったような気もする。そんな当たり前のことに、少なくとも昨年は意識さえできなかった。
先日友人と話していて、「わたしがこんなに悩むのは、日本語のせいだ。繊細な含みを持つ言葉が多すぎて“丁寧に悩みやすい”と思う。海外で生活すると、言語がシンプルだから悩み方もシンプルになる。」という話がおもしろかった。彼女は海外生活が性に合っているらしい。
“だ・である調”で書くか、“です・ます調”で書くか。たったそれだけのことで、書き手の思考の深さや感情の揺れ動きにかなり影響があるように思う。そしてそれは、そのまま読み手にも伝わっていく。相手にどんな読後感を与えたいか、ということから逆算して文体を調整する器用さは、残念ながら僕にはない。ないけれど、メッセージのベクトルが内向きなのか外向きなのか、それを意識することは少なくとも大切なように思える。
昨年は、もともと書きたいと思っていた家族のことを書ききったあと、敬体の外向きの記事を書いたことをキッカケに、同じような内容を今度は敬体と常体が混ざり合うかたちで、そして最後は常体にして書くということがあった。
敬体の外向きの記事
敬体と常体が混ざり合った記事
常体の内向きの記事
この3つの記事は、少なくとも僕の中では、だいたい同じようなところを触っている。昨年の前澤さんのお年玉ツイートに反応して敬体で言いたいことを書き、そこから「夢を持つ」「本当の幸せとは」という問いを足がかりに敬体と常体が混ざり合う文章を経て、最後は「ぼく(の幸せ)はこうありたい」と確信へ向かう常体の記事にたどり着いた。
結果、自分はどんな仕事をしたいのか、かなり明確な座標を持つに至った。その発見と快感がおもしろくて今年も記事を書き始めている。とすると、
①もともと言いたかったことをまず吐き出し切る
②世の中の事象に反応して(たぶん敬体で)書く
③違和感を大切に内省して(つまり常体で)書く
という3つのステップが大事なのかもしれない。あと少しだけ、もともと書きたいことがあって、それは敬体で書くことになると思う。
過去の言いたかったことはさっさと吐き出し切って、時間軸を今に合わせていきたい。そこから、今年は何を思うのだろう。期待のしすぎは良くないと思いつつ、その期待があるからこの文章も書けている。
以上、閑話休題でした。こういう記事もないと、1ヶ月は続けられないなあ。(こういう文章は敬体と常体が混ざりやすい。)