過去は変えられる。
先日、ゼミ生の卒業制作を添削していた。彼女は小説を書いていたのだが、これが初挑戦。初稿をみたときの感想は正直稚拙で、どこまでクオリティを高めてもらえるか不安だった。最終稿をみて、期待がいい意味で裏切られたことに驚きつつも安堵したのだった。
ひと通りフィードバックを伝えた後、長文の感謝のメールを送ってくれた。その中で触れられていたことが、僕の胸を打った。次のように書かれていた。
僕のゼミでは何かをつくる前に、徹底的に内省させる。当時彼女は、小説を書きたい自分に気付いていなかった。それがある日、別の教員に「書くの向いてるよ」と言われたのがキッカケで執筆にのめり込んだらしかった。
ちなみにその教員は僕を大学教授に誘った人で、尊敬する会社の先輩でもあった。彼は教員を続けながら会社を独立し、そのゼミ生は、彼の会社でインターンを始めた。彼女を、僕のゼミではなく彼のゼミに入らせてあげたかった。僕は後悔とも懺悔ともつかない気持ちをこっそりと抱えていた。
だからかもしれない。彼女からのメールを見て、救われた心地がした。僕のゼミでやってきたことが無駄にならなかったから。生かしてもらえたから。
人生には時に、これまでの過去を予告編に変えてしまうような出来事が訪れる。彼女にとっての出来事とは「書く」ことで、これまでの過去が「ゼミでの内省」にあたる。その瞬間、過去がそれまで孕んでいた意味は、突然変わる。だから過去は変えられる。
そのドラマチックな転換を、僕は何度か経験している。たとえば家族の問題があったから、社会問題と真剣に向き合えた。人として決定的な弱さを飼ってしまったから、他人の弱さに寄り添えるようになった。当時どんなに苦しくても、「あの時があったから今がある」と自分に言わせてあげられた。そんな経験は、自分を少しだけ、誇り高いものだと思わせてくれる。
彼女の中にもきっとそんな実感があるに違いなくて、だから「自分を褒めてあげたい」のだと思う。これはそうするに値する経験で、だから僕は、僕のおかげではなく自分のおかげにしてあげてください、と伝えた。
しばらくすると、また彼女から返信が来た。文末には愛情たっぷりにこう書かれていた。
わろた。せめて美しくくたばれるように精進します。