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鳴滝荘に住みたかった

ブログを書き始めて、12/31の記事を合わせれば10日連続の更新。リズムがついたらもうこっちのもの。慣れるまでが大変だけれど、慣れてしまえば書かない方が気持ち悪くなる。

気がつけば年明けから1週間以上が経ち、仕事にもそろそろ慣れ始め、あっという間に2月が来るんだろう。と言っている間に1年が経ち、また歳を重ねて…その繰り返しの延長線上に横たわるベッドの上で、人生最期の時を迎えるのだろうか。

そんな予感が怖くて、日本中を家庭円満にする魔法で書いた事業プランを空想しはじめた。それが自己肯定感の高め方で書いたような、いまの自分を一番大事にしてあげられることだと思ったから。

しかしいざ事業家の方々にプランを説明してみると、どうも体重が乗っからない。想いとビジネスモデルがちぐはぐになっていく。しまいには「このプランは自分にとって何点ですか」と言われる始末だった。

ソーシャルビジネスというのは想い(why)がすべてのエンジンだ。というより全てのビジネスのエンジンは想いだ。だからビジネスが失敗するのは「成功するまで続けられなかったから」と言われるし、続かなくなる理由の大半は起業家が途中で“飽きてしまう”(別の言い方をすれば“燃料が枯渇してしまう”)からだと聞く。

自分のような子供をどうにかしたい。そのためには親をどうにかしたい。そこに何ひとつ偽りはなく、想いを叶えるビジネスプランには一応なっている。なのになんでもっとワクワクしないのだろう、そんな問いをぶら下げて駅前を歩いていた時、はたと思い当たることがあった。

いま最先端の自分が、どこにもいない。

「自分のような子供をどうにかしたい」「親をどうにかしたい」それらの想いはいずれも本物だけれど、過去に生まれたものだ。それがわだかまりとなって自分の内側に堆積しているけれど、地層は古い。いちばん上の新しい地層に目を向けると、わたしたちの社会をみずからつくるで書いたことが降り積もっている。

もっと、IからWeへ。「わたしたち」という、大切にしたいものを共有し合える顔の見える関係を欲している。たくさんの汗とひと匙の工夫で出来上がる、頑丈な社会を求めている。そんな気分がここ数年続いている気がしている。

僕がつくりあげたいのはきっとそういうもので、思い描く社会の真ん中にいるのは子供だ。手段はビジネスである必要はない。ビジネスにすることでうまくいかない予感さえある。そんな頼りない感覚だけを頼りに、欲しい未来を空想する。

そしてこの地層は、都合のいいことに、最下層から吹き出したマグマによってできたものらしかった。地表に転がる古い記憶の花崗岩を覗き込むと、ある漫画の景色が刻まれている。ガンガンという雑誌で連載していた「まほらば」という作品。

冴えない主人公が、若い大家さんが営む”鳴滝荘”というお屋敷みたいなアパートに引っ越してきたことから始まる隣人たちとのドタバタほっこりコメディ、のような内容だったと記憶している。日々のやりとりがどれも優しくて、笑えて、あたたかくて。

中学生の頃、僕はこのアパートの住民だった。親が夫婦喧嘩を始めると逃げこむようにこの漫画を引っ張り出しては世界観に浸った。なぜこんなにも惹きつけられるのか、あの頃はわからなかったけれど、今なら「優しい世界のあたたかい住民たちに囲まれて暮らしたかった」のだとわかる。というと、綺麗事が過ぎるだろうか。

この願望は古い。漫画のことなどすっかり忘れて十数年生きてきたけれど、でも、気がつけばまたあのアパートの前でウロウロしていたのかもしれない。などと書くと本当にそうだと思い始めてしまうのだから始末が悪い。

拡張家族。シングルマザー専用シェアハウス。介護付きソーシャルアパートメント。その手のものが最近流行りのようで、似通ったコンセプトの暮らし方なんて調べれば幾つでも出てくる。でもそれは、僕がやらない理由にはならない。

ちょうど僕ら世代からルームシェアやシェアハウスが流行った。現に僕も社会人5年目まで友達とルームシェアをしていた。少なくない人たちが心のどこかにさみしさと満たされなさを抱えている。それを埋め合わせるかのごとく、住むところでさえ他人とシェアすることに抵抗はないし、僕を含めて親の離婚を経験する人は多い。血縁というつながりが不確かになった以上、もっと頑丈で確かな何かを求めている。

などと書き足していくと、もうそうだとしか思えなくなってしまうのだから本当に始末が悪い。ちょっと頭を冷やそう。

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