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ほんとうの応援をする、ということ
昨晩はサッカー日本代表vsイラン戦を応援するべくTVの前にかじりついていた。終わってみれば3-0の完勝。気持ちのいい試合だった。
僕はサッカーの試合を観るのが好きだが、終わった後に次々と報じられるニュースを追うのもまた好きだ。各報道媒体にYahooニュース、Twitterに海外掲示板。特に今回のように気持ちのいい試合の後は、様々な角度から情報を収集しては何度も勝利の喜びを噛みしめる。
その中でどうしても気になってしまうのは、パフォーマンスが良くなかった選手個人を叩く記事やコメント。あるいは、これまで叩いてごめんなさいと手のひら返しをする声の数々。「90分を通して、槙野と北川のポジションが素晴らしかった。」という書き込みには思わず笑ってしまったが、それでもこの言葉に対して、本気で共感して嘲笑するのか、あくまで冗談として笑うのか。いわばスポーツにおける応援民度みたいなものだが、そこには雲泥の差があるように思う。
早い話が「応援とは何か?」ということだ。僕なりの答えは「相手の力になるように励ますこと」だが、おそらく多くの人が頷くものだろう。
問題は、それをどのくらいの人がほんとうに実践できているのか、ということ。
活躍した選手へ賞賛の声が集まる一方、そうじゃない選手への「代えろ」「もう使うな」の合唱、容赦ない罵声と批判の数々。その声援は果たして、選手の力になっているだろうか。その声援を送ることで、選手はさらに活躍できるのか。試合に勝てるのか。引いては、その結果はあなたが望んでいたものだったのか。
厳しい声にも耐えて一人前、だからこれは叱咤激励。そういう人もいるだろうが、そのうちの何人が、それは自分を守るための反射的な反論ではないと胸を張って言い切れるだろうか。本当に選手のことを思って言ったのか。自分の正直な気持ちを知るために一度ひとりで考えてみるのもいいと思う。
僕自身ある時期まで、パフォーマンスの良くない選手に対してTVの前で悪口を叩いてしまうことがあった。それを「応援」と呼んでさえいた。だけれど応援の意味をきちんと考えてみたとき、それは「自分を楽しませてほしい」という娯楽的な態度であって応援ではないことに気がついて恥ずかしくなった。そこは混同しやすいし、きっと自分を正当化して誤魔化しやすい。
今回のような罵声や批判や手のひら返しは、ロシアW杯でも嫌というほど味わった。開幕直前の監督交代劇や親善試合の不調などがあって、当時日本には失望ムードが立ち込めていたように思う。
だけど僕はそのとき、選手を羨ましいと思った。人生でこんなに厳しい状況に置かれることってまずない。ここから日本中の想いを良い意味で裏切れたら、どんなに気持ちいいだろう。それは選手だけでなく、僕にとっても最高に気持ちのいいことだと思った。
だから応援した。可能性を信じ続けた。その結果はご存知の通りだ。初戦のコロンビア戦に勝利した瞬間の、あの日本中が湧いた光景を見たとき。応援をし続けたものにしか味わえない「やってやったぞ感」が確かにあった。それはそれは格別だった。
この記事を目にした人には、アジア杯決勝でぜひ味わってほしいと思う。