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強制参加は踏み出す勇気を奪う

昨年9月に参加したワークショップで印象的なことがあった。「自分の仕事と社会をつくる」を見つめる3日間というテーマで、実際に地域で活躍する方々のお話を聴きながら参加者と共に歩むようなプログラムで起きたこと。

集まった40名強の参加者も老若男女さまざま。ただし各々がトランジションの区域に差し掛かり、自分の人生と仕事について立ち止まって考えたい人が多かったように思う。そのうちのひとりに、つらい仕事を辞めたばかりで今後どうするか決まっていない20代後半の男の子がいた。

彼の第一印象は「シュッとしている」で、やわらかい雰囲気と賢そうな佇まいを持っていた。いざプログラムがはじまると、地域で活躍する人たちに参加者が混じり、いま悩んでいることや企んでいることをエネルギーたっぷりに話していく。そこには参加しない自由が担保されていて、自分の状態に合わせて聞く専になることが許されていた。彼はニコニコと参加者の話を聞く側にまわっていた。物静かながらも熱心に学んでいるのかなという印象だった。

初日の夜、最後に全員が輪になって自分の状態や感想を報告し合う時間が用意された。彼の番になった時、「面白い話がたくさん聞けました!」と爽やかに言ってくれそうな期待が立ち込めていた。しかし彼はしばらく黙ったままだった。ようやく開いた唇は震えていた。

みなさんの話を聞くうちに…これから人生どうするかも決められていないのに、格好つけて聞いている自分に気づいて、それが本当に情けなくて…

言葉とともに涙が溢れ出していた。彼の中で、彼にしかわからない葛藤にぶち当たっていたのだと知った。「せめて格好つけず、ダサくても素直な自分を見せられたらと思います」と締めくくった時、残りの時間をどう振る舞うかの覚悟が決まったのだと思う。

次の日もプログラムは進んでいく。彼も徐々に発言する機会が増えた。初日にみっともない姿を見せられたことで、どこか吹っ切れたようだった。最終日には参加者同士でいくつか議題を出して話し合うミニクラスが設けられ、彼も勇気を振り絞って議題を立候補していた。彼のクラスは盛況だった。

プログラムの最後にまた全員が輪になって感想を報告し合った。「格好がつかない自分をさらけ出して、勇気を出して発言できたことで、全部が変わりました。拙い自分を見守ってくださって本当にありがとうございました。」と彼は声を震わせた。

きっと彼は感動していたのだ。勇気を持って踏み出せた自分自身に。そんな姿に僕らは心を打たれ、応援するような気持ちで見守っていたように思う。僕もたくさんの勇気をもらった。こちらこそありがとう。そんな気持ちでいっぱいだった。

僕は、人が成長する瞬間を目の当たりにするのがたまらなく好きだ。自分自身に感動して涙を流す姿がたまらなく愛おしい。そのことをつくづく彼に思い出させてもらえた時間でもあった。

もうひとつ感じたのが、強制参加の功罪について。もしこの場が、強制的に話に参加する力が働いていたとしたら、彼はここまでのことを短い時間で成し得なかったと思う。発言しても、しなくてもいい。その自由が担保されていたからこそ「踏み出す勇気」をふり絞る機会が僕らに与えられていた。

強制するということは、その「踏み出す勇気」を奪うことでもある。見守る方にとっては時にもどかしいけれど、人にはそれぞれタイミングというものがある。場を設計する側には「待つ勇気」が求められる。その大切さを学んだように思う。

もちろん、強制することで背中を押され、新たな景色を獲得することもある。どちらか一方が良い悪いではないのだけれど、踏み出す勇気を奪うことに対して自覚的であるかはとても大事なことだと思っている。

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