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自分の「無意識できる」を探して
いわゆるオンライン学校みたいなものを、いま仲間と一緒に設計しているという話を以前ブログで書いた。
この学校のカリキュラムをどう設計するか、昨日おとといと話していたのだけれど色んな発見があってとにかく面白い。
自分が何かを学んだり旅に出たりする出発点として、僕らは“自分の素直な問い”というものを大切にしようとしている。だけれど、自分の気になることを頭でっかちに考えたって結局はどこか格好つけてしまったり、あるいは心や身体の悲鳴のような声を無視してしまったりする。ようは、自分の感覚に素直になるのが下手になっている。
僕のある仲間は、地震が起きたときに「このまま死んだらどうしよう」と不安になったから、地域の共同体的な暮らしにヒントを求めて旅に出た。またある仲間は、奥さんとの性生活に悩んでいたから、生・性・政という3つのセイが結びつく土地へと旅に出た。
そうした、もっと自分の根っことつながった問いを見つけるためにはどんなことが必要なんだろう。ということを突き詰めていく中で、“自分の心と体の声を聞く練習”みたいなものとして、「自分が無意識でやってしまう遊び」を意識化してみたらどうかという仮説を持っている。
たとえば僕は、その打ち合わせの議事録をとって仲間に共有した際に「お前の議事録めっちゃわかりやすいわww」と言われた。自分では意識してなかったけれど、他人からみたらどうやらそうらしい。これって、よくよく考えてみたら自分的には面白いことだった。
僕は昔から、学校の授業のノートをとても綺麗にとるタイプだった。それは、先生に褒められたいわけでも友達に見せたいからでもない。「あとからノートを読み返す自分はある意味“他人”で、汚いノートで復習するのは絶対嫌がる」という感覚があったから。つまり未来の自分という他人のためにせっせと美しいノートをとる、という無意識の遊びを繰り返してきた。だから議事録のような「その場に出た情報を即興で整理する」のは結構得意なのかもしれない。という事実を、その仲間からコメントをもらうことで発見できた。
こういう「無意識できる」って、一度言語化されると急に意識しだして、あまつさえ得意げになったりもする。自分の好きなことが急にひとつ増えた感覚。そしてそれは、心や身体の声を聞くことでもある。今より少し、幸せになる。
そういうのが上手な人っているよね、という話はまた別のブログにも書いたけど、
自分の「無意識できる」を発掘し合えるプログラムがつくれたら、きっといい場になる。それを考えるのがとても楽しい。
ちなみにここ1ヶ月、ほぼ毎日ブログを更新し続けているわけだけれど、こうやって文章を書くことも「無意識できる」なのだろう。感覚や感情をヒントに思考すること、それを言語化するのは楽しい。ただ、それが人からみて「得意」と呼べるレベルなのかはよくわからない。どうなんでしょうね。