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美しくて醜い思考について

最近の自分のツイートを見返していて、「嘘」というキーワードに引っかかりを覚えた。

前者の嘘は「醜い嘘」だと僕は思う。誰かに気に入られたくて誇張・媚び・捏造したツイートをしたり、「そんなとこにそんな仕草で人が佇んでるわけないやろー!」というような写真を偶然撮れたかのように装ってインスタに投稿したり。いいね欲しさに現実まで歪ませてしまう、そのだらしなくはみ出した自尊心にひどく酔ってしまう。(しかも厄介なことに、本人には自覚がないことが多い)

「なにこれ嘘みたい。」目を見張る感動に思わず立ち尽くしてしまう、そんな現実をつくりたい。見落としているんだったら差し出してあげたい。そう思って、企画という仕事にも写真という趣味にも打ち込んでいる。

一方後者の嘘は「美しい嘘」だと思う。人というのは本当に厄介な生き物で、二人も揃うと余計ややこしくなるけれど、嘘というものがあるからつながっていられる。地球上の生物で人間だけが唯一嘘をつけるのは、それがきっと僕らの生活必需品だからだ。美しい嘘を美しいと思える人でありたい。

時を戻そう。前者の嘘について、もう少し。

醜い嘘つきを見かけると、気持ちが悪くなる。さらにいうと、その嘘に騙されて、持ち上げたりすり寄ったりする人を見かけると無性に腹が立ってしまう。知性のなさに。都合のいいものだけを摂取する態度に。浅はかで視野の狭い自分に疑いの目さえ向けられない生き様に。そういう人たちのせいで、承認欲求を肥やした嘘つきどもがさらに勘違いを加速させていく。その構造が気持ち悪いのだと思う。

彼らを叱って襟を正してあげられる人はいるのだろうか。彼らが耳を傾けたくなる人って誰なのだろうか。それが全く思いつかないほど社会は分断されてしまった。メディアも企業も広告も、お客様を神様扱いしすぎた。彼らの求めるものを差し出すのではなく、知性と欲望を教育する視点があまりにも欠けている。

話が大きくなりすぎたので個人に戻す。僕がそこまで強く嫌悪感を感じてしまうのはなぜだろう。

承認欲求の傀儡にならず、自分の意志で歩いてほしい。本来の自分らしさをもっと大切にしてあげてほしい。あなたまであなたの存在を否定してしまったら悲しい。自分の存在を自ら肯定していくのが生きるってことでしょう?

そんな美学が、通奏低音のように僕の中で響いているらしかった。承認欲求で人を操り人形にして、人生を消費させている黒幕は誰なのか。きっとSNSであり、このブログだってそうなのだろう。黒幕の手のひらの上で踊りながら文字を書き殴る。

それでも以前、違う見方ができたことがあった。ある後輩のツイートに多くの人が群がる様をみて「気持ち悪い」とつぶやいたところ、後輩本人から直接クレームが入った。邪魔しないでほしい、と彼は言った。

僕は彼のことが人として好きだった。だから彼を否定しない出口を必死に探し、辿り着いたのは「自分が絶対にできない方法で評価される人が許せない(悔しい)」という、なんとも醜い感情だった。

結局のところ僕は評価されたかったのだ。ただし自分の美学に反することはできない。僕のできない方法でみんな僕を追い越していく。だから彼らを否定したくなる。そんな構造で腹を立てているのだとしたら、一番醜いのは僕自身だ。

自分の美しさと醜さ、どっちも本当で、どっちも自分らしいと思う。嗚呼、本当に厄介な生き物だ僕は。

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