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多様性ってなんだろう。4つの視点から考える。
多様性、という言葉が氾濫している。それによって、特にLGBTQの方々に対する理解や受容性は随分進んだように思う。反面、まるでマジックワードのように、「とりあえず多様性と言っておけばいい」ともとれる場面に出くわすことも少なくない。
多様性って、そんな簡単なことだろうか。うまく言語化できない疑問が頭をもたげる。心の奥底に浸透させるためには、もっと、ある種の”しんどさ”を伴うショックやエネルギーが必要に感じられて。
ここ1年で僕なりの解釈が進んだ。その軌跡を書き留めておきたい。
多様性とは「理解できなくても一緒にいられること」
老若男女、様々な人種や要介護者がともに暮らすシェアハウス「はっぴーの家ろっけん」を営む首藤さん。彼のインタビューを読んでいたとき、こんな言葉と出会った。
多様性というのは、全員に共感を求めるとかではないです。
「一緒にいても、気にならない。」
「理解しあわなくても、一緒にいられる。」ということ。
読んだ当時、素敵な言葉だと思ったし、そんな世界が早く訪れればいいと感じた。だが、いまあらためて読むと、少し誤解を招くかもしれないとも感じる。
いろんな人がいるけれど、わかり合えない人は存在するものだし、まあ気にせずに付き合おうよ。
そんな、諦めにも似た「突き放した感じ」も、見方によっては受け取れる。確かに僕らは別々の人間だから、完全にわかり合えることなんてないのだけれど。それでもどこかに、「わかりたい」と願う気持ちがあってほしい。ハナからわかり合えないと突き放すのは少し寂しい。
今の僕ならそう思う。だからかもしれない。次の小説を読んで、普段なら絶対に取らない行動をとった。
多様性とは「理解できる範囲の多様性だけを許容する都合の良い言葉」
朝井リョウさんの小説「正欲」を読んだ。冒頭、とある事件の報道が紹介される。一見すると、幼い男の子への性癖を我慢できなくなった成人男性たちによる卑猥な事件のように感じられる。しかし小説を読み進めていくと、捕まった人たちは、読者には想像もつかない性癖を持っていたことが明かされる。
その性癖は、いわゆるノーマルの人からすると極めて特殊だが、本来他人に迷惑をかける類のものではない、はずだった。それが偶発的な出来事によって事件に発展していくまでを筆者は追っていくのだが、小説全編を通して、多様性という言葉がいかに”おめでたい”ものかを読者に突きつける。
ある大学生の女の子は、いわゆる見た目がどうこうといった、読者の日常でもふだん取り沙汰されるような観点から多様性を謳う。しかし、彼女が恋心を抱いた男の子は、彼女が想像もつかない性癖を抱えていた。君に僕のことを理解できるはずがない。そう言って距離を置く。
しかし彼女は、彼女が理解できる範囲の多様性を振りかざして彼に迫る。だから彼は、ずっと心の奥に仕舞い込んでいた心情を白状せざるを得なかった。
多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。
小説を読み終えた後、深く考え込んでしまった。と同時に、自分自身も都合よく多様性という言葉を濫用してしまっていないか自問した。そして、想像さえ及ばない他人という存在に対して、もっとわかる努力をしたいと思った。
だからかもしれない。ひょんなことで出会った女性が「実はSM趣味がある」と打ち明けてくれたので、彼女の行きつけの新宿SMバーに連れて行ってもらったことがある。
店主は人を殴らないと興奮できないと言った。女性店員は靴で蹴られないと濡れないらしい。そしてお店に訪れた女性は「縄でキツく縛って叩いて欲しい」と店主に懇願した。
僕をSMバーへと連れて行ってくれた女性も縄で縛られるのが好きらしかったが、どうも「痛いのは嫌い」らしい。SMの中にもさらに多様性があり、概念をひとくくりにして扱う危険性と失礼さをひどく感じたのだった。
小説にせよ、SMにせよ、自分の理解の範疇の外側にある多様性がこんなにもある。せめて僕は、それを知った上で多様性という言葉を口にしたいと強く思った。
多様性とは「盲点をなくすこと」
企業などの組織においても、多様性は重要である。そんな言葉に僕は、人権配慮の観点は感じても、それ以上に何の意味が込められているかを知らなかった。
「多様性の科学」という本がある。本の出だしは「なぜ米国CIAはビンラディンによる9.11同時多発テロを防げなかったか」。なかなか刺激的である。
その本は、9.11同時多発テロが起こる前に、いくつもの兆候があったことを示す。その最たる例は、ビンラディンがある洞窟でアメリカに宣戦布告をするデモテープだろう。
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この画像で正しいのか判別がつかなかったのだが、それでも今の我々になら、その後彼がいかに驚異になるか、嫌でも想像がつく。
しかし当時、彼は顔も名前も知られていない無名のテロリストだった。みすぼらしい格好で、洞窟なんてせせこましい場所で、大国アメリカに宣戦布告する姿はひどく滑稽に見えたことだろう。だからCIAは特段注意を払わなかった。
しかし、現実は異なる意味を持っていた。彼を信奉するイスラム過激派にとって、彼の姿は神の再現そのもので、洞窟は神聖な場所だった。彼らの宗教的な文脈を理解できていれば、このデモテープがいかに脅威を示すか一目瞭然のはずだった。彼は次々にテロを成功させ、多くの信者を陶酔させていく。
それでもなぜ、CIAはこの脅威を見落としてしまったのか。CIAの職員採用率は2万人に1人だという。超優秀な集団であることには疑いはないが、そのほとんどは白人で、学歴優秀で、プロテスタントを信仰していた。多様性がなかったのだ。だからイスラム教における重大な文脈を誰ひとり見抜けなかった。
どんなに優秀とされる頭脳を集めても、その出自や信仰に偏りがある限り、視点の数は乏しくなる。ますます複雑性が増す社会において、それは致命的な欠陥になり得る。真に優秀で生産性が高いとされる集団は、能力以前に視点の数が違う。視点が多様化すればするほど、見つけられる有益な解決策の幅が広がる。
マッキンゼーがドイツとイギリスの企業を対象に行った分析によると、経営陣の人種および性別の多様性の豊かさが上位4分の1に入っている企業は、下位4分の1の企業に比べて自己資本利益率が66%も高いという結果が出た。ちなみにアメリカの企業では、実に100%高かったそうだ。
企業などの組織においても、多様性は重要である。この章の冒頭で引用した言葉だが、今となっては受け取る意味がまるで違うはずだ。多様性は綺麗事ではなく、実に合理的な経営手段といえる。
多様性とは「大事な問いを生み落とす摩擦」
様々な観点から多様性という言葉を取り扱ってきたが、最後の切り口が、実はいちばんしっくりきている。今年の元旦に新聞を読んでいると、東大のスピーチで有名な上野千鶴子さんのインタビューが目に止まった。
斜め読みだったが論旨は記憶に焼き付いている。複雑性が増す時代、課題解決能力以前に「そもそもどのような問いを立てられるか」が重要性を増している。問題は、どうすれば、良質な問いを発することができるか。
ヒントは、いかに異質なものに触れる機会を持てるかだと上野さんは語る。外国の異文化、高齢者や障がい者。つまり多様性と日常的に付き合うことで、自然と違和感が沸き立つ。それこそが問いの発露につながる。
非常にシンプルで核心を突く話だと思った。僕もクリエイターの端くれとして、いかに小さな違和感を持てるか、自分なりの問いを持てるかに関心がある。それは奇しくも、元旦から切望してきた「いかに創造性を回復できるか」という問いの答えにもつながっている。
多様性をわかったふりをするのではなく、ただ受け入れるのでもなく、きちんとぶつかる。わかろうとする。摩擦を起こす。そこから、創造性の種が芽吹いてく。
最先端の僕には、最後の捉え方がいちばんしっくりきている。ターゲティング広告から余暇の使い方まで、人は自分が心地良いと感じるものばかりと接している。
もっと、安全圏の一歩外側へ。未知で居心地の悪い環境へ。
だから今、僕はこんなにも旅に出たいと願っているのだと知るように思った。