弱いことの価値
先日友達から「お前ってほんと、人に寄り添って伴走するのが上手だよね」と言われた。
上手かどうか、自分ではよくわからない。でも他人から見たらそういうこともあるだろうし、周りの言葉によって自覚と自信が芽生え、なれる自分になっていくこともあるだろう。そうした、背中を押す言葉を与えられる人のことを心から尊敬する。
僕はたしかに人と話す中で、相手から悩みを打ち明けられることが少なくない。それは言い換えれば、僕になら自分の弱さを晒け出せる、とも言える。
それはたぶん、僕が弱い人間だからだと思う。弱い人間は、まとわりつく空気がふにゃっとしていて、相手を強く否定できない。というか、そういうこともあるよねと基本的に全肯定モードで話す。僕にとって相談しやすい人もそうだからよくわかる。受け止めてくれて、絶対に否定しない人。
自分の中になにか決定的な弱さを飼っているということは、相手の弱さを自分のことのように共感できるということだ。ひとつにはなれないが、限りなく寄りそうことはできる。そういう力を僕は、母と父から授かったのだと思う。
僕の弱さが相手の弱さを連れ出して、二人の間にそっと並べる。いやあ参ったねえ、と笑いながら、もしかしたらこうするといいかもね、とたまにつぶやいてみる。相手の力がふっと抜けて表情が緩んだのがわかって、僕も嬉しくなる。そういう瞬間をとても愛しいと思う。
だから僕は「ともに悩む」のが得意です、と上司に自慢げに話したら、「お前はそうやって一生悩み続けるんだよ」と笑われてしまった。
悩まなくて済む日がいつか来てほしい。そう願っていた僕は、なんだか救われた気がした。そうか、どうせ一生悩み続けるのか。
そういう上司もまた、僕が心から尊敬する人のひとりである。