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沢山の喜びと挫折

こんにちは!前回の投稿の方で私の幼稚園時代を振り返ってみました。次に小学校6年間を振り返ってみようと思います!!

小学生になり、近所の友達もサッカーをやっていたこともあり地元のサッカークラブである宮和田FCに入りました。

練習は週2回(試合も含む)土曜日と日曜日にありました。

小学校1年、2年の時の私はとにかくダラシなかったなぁと感じます。朝9時の練習の時は時間ギリギリに起きて朝飯も食わず、10分ほど遅れて練習参加するのはざらにありました。最低ですね、本当に。笑


でもそんな私を見捨てることなく、サッカーの楽しさを教えてくれたのはこのクラブだけだったと思います。また、サッカーの基礎を教えてくれたのもこのクラブでした。


もうひたすら利き足の逆(左足)のキックの練習(壁にボールをくっつけて左足をひたすらボールにミートさせる練習)

これは今でもめちゃくちゃ覚えています。

でも未だに左足はおもちゃ…やばい、、



試合になれば、小学生ながらアドレナリンがバンバン出てて疲れ知らず、端から端まで走り回ってドリブルしてゴールを決め、負けていれば試合中でも泣き崩れ、側から見たら「なんだあいつ」って感じだったと思います。笑

良い意味でも悪い意味でも笑。本当に伸び伸びサッカーをやっていました。楽しくて楽しくて仕方なかったなーと今になって感じます。笑

成人しても仲良くしてくれます笑


3年生になった時、友達の母から鹿島アントラーズと柏レイソルにサッカースクールがあるから行ってみたら?と提案されました。

それを聞いた母は私に「やってみたら?」「どっち行きたい?」と聞いてくれて、私は鹿島アントラーズのサッカースクールを選択し、さっそく行ってみました。

何ヶ月か通うと、小学校四年生になる前に鹿島アントラーズつくばジュニアのセレクションがありました。私はそこでコーチの目にとまり合格することが出来ました。

私の母と父は自分たちが応援していたクラブに自分の子供入るとは思っていなかったと言っていました。ちょっとは親孝行出来たのかなとも感じます。(冗談)




小学校4年生からは鹿島アントラーズつくばジュニアに所属しました。小学生ではありますが、地域の中から選ばれた人たちだったのでかなりレベルが高かったのと、対戦相手もJリーグの下部組織ばかり。この経験はなかなか出来ないことだと思うので本当にありがたかったです。



入って間もなく、私はトップ下で使ってもらっていました。プレースタイルとしてはドリブラーというよりかはパサーだったんです、、笑しかも女の子みたいに超内股で走ってました。笑
びっくりするほどの内股走りでした。笑


今では考えられませんね、、笑
小学校四年生の県大会で優勝した時には優秀選手にも選んでもらいました。

↑1番右です。笑
 内田篤人に憧れて2番にしたと言う超ミーハーしてました、、笑



それからは挫折の連続でした。5年になって何人かチームに加わったり、鼻を怪我したりと色々なことが重なったこと、そして自分自身のプレーができなかったことで先発で試合に出れない日々がめちゃくちゃ続いていました。

県大会の予選の時、私が試合に出なかったにもかかわらず、最後まで両親が応援していて、終わった後寂しそうに帰っていたところは今思い出しても本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。




なんとか最後の年、6年生になって全日本少年サッカー大会の試合では全試合に右サイドハーフで出場することができ、3位決定戦では県立鹿島スタジアムで試合をして県三位になることができました。この時の充実感はかなりあったのを覚えています。  


しかし、何ヶ月か経った後コーチとの面談で「悠平はジュニアユースに昇格出来るレベルには正直達していない」とはっきり言われ、最後のチャンスである合同セレクションでもアピールすることができずに昇格することは出来ませんでした。

本当にたまらなく悔しくて、涙が止まりませんでした。小さな挫折は沢山あったけど、これほど大きな挫折は初めてだったので、気持ちを落ち着かせるのにはとても時間がかかりました。

ただ最後の公式戦では試合にも出場して県優勝して3年間のアントラーズでの活動を終えることが出来ました。


タイトル通りこのアントラーズでの活動は特に沢山の喜びと挫折の繰り返しでした。小学生でこのような経験ができたことは自分の中で非常に大事な財産だと感じます。


そして、私は中学お受験をして、中学校の部活でサッカーをすることになります。笑
まぁこれは次の投稿でまた書いていくこととします。


ダラダラと書いてしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!!


次の投稿もお楽しみに!!


3150!





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