ロノミーの湖水(八)
今は冬ではない。ティブ島が北の島であるとは言え、少し肌寒い程度の五月の夜にその男が口をマフラーで隠す理由が、防寒のためではなく顔の特徴を見られないためだと考えるのは、身に付けている服が何もかも黒色であることの不自然さも考慮すれば、それほどおかしくはない。
その男は、微動だにせず、鋭くも濁った目で、ニルをじっと見ていた。
「ニル」
家の書斎にいるチウがニルに語りかけた。ニルは一瞬びくりとした。
「角を曲がったその先に、酒場があるのを知ってるだろう。お前の父がたまに行く酒場だ。その酒場は朝まで開いとる店だ。走らず、しかし不自然にならん程度に速やかに歩いて、まずはそこに逃げ込むんだ。走れば、奴も刺激され、急いで追いかけてくるかもしれん。大人の男の走りには勝てん」
「わかった」
ニルは左耳に手を当て、ぼそりとそう答えた。
黒服の男は、未だにこちらを見て立っている。その細長い体を、ぴくりとも動かさず、黙って棒のように立っている。ニルは、その不気味な男を横目に、出来るだけ自然に、素早くその二本の脚を交互に動かした。
心臓の鼓動が速くなる。角を曲がったニルの視界には、既にその男は死角に入り見えなくなっていた。男の姿を目視しないのは怖かったが、振り向くのはもっと怖かった。後ろを振り向けば、すぐそこにその男がいるような恐ろしい感覚が、常にニルの中にあった。
ニルの真正面に、酒場はある。最初、灯りがついていることに、ほんのりとした安堵を得たが、それはすぐにさっきまでの恐怖に上塗りされた。酒場までの距離が、とてつもなく遠いような錯覚をニルは覚えた。いくら歩いても、ちっともその酒場の扉と自分との距離が縮まらないように思えてしかたがなかった。
げほ、げほ、という、人の咳き込む声がニルの鼓膜に届いた。それはチウ達と繋がる、耳に嵌めた小石から聞こえる声とは明らかに別の性質の声であり、何より、大人の男の声色だった。
ニルは思わず後ろを振り向いた。すぐ、歩いて六、七歩程度の距離に、あの男がいた。いつの間にこんなに近づいたのだろう。通りに、他の人間は皆無であり、咳き込んだのは、どう考えてもその男だった。
そこで、ニルの脳裏に浮かんだのは、その男は顔を隠すためにマフラーを口に巻いた危険人物ではなく、あくまで自身の何らかの伝染病をただ他人にうつすまいと口を塞いだ、善良な一般人ではないかという発想だったが、そんな甘く都合の良すぎる話はすぐに吹き飛んだ。そんな一般人が、何のために深夜の通りでわざわざこちらに近づいてくると言うのだ。
怖い。もう駄目かもしれない。そのような強い思いに支配され、ニルは、祖母の指示を無視し、全力で酒場の扉に向かって走った。
「ニル、走れ! 迷うな!」
「兄ちゃん、逃げて!」
そんな、意外にも送られた祖母からの応援と、愛すべき弟からの声援を力に変え、ニルの走る速度は幾ばくか加速した。
何一つ思考せず、恐怖と家族からの声だけを原動力に、ニルは走った。そしてニルは、まるで永遠を凝縮したかのような十数秒間を走りきり、その勢いのまま、扉を思い切り開けた。
酒の臭いがニルの鼻を刺激する前にまずニルの目に飛び込んだのは、松明の灯りに照らされ、台の上で弦楽器や金管楽器を演奏する、数人の青年達だった。
ニルはその光景と音に圧倒された。楽団の演奏を聴いたのも見たのもニルは初めてだったし、それらと酒場の雰囲気や臭いが混ざり合って与える大人っぽくて洒落たイメージは、恐怖が伴う全速力での短距離走を走り終えたばかりの息の切れたニルにすら、否応なく小さなときめきをもたらした。
客の入りは、深夜だけあってまばらだったが、演奏に集中する楽団の青年達はもちろん、周りの客も皆、ニルのことを気に留める者はいないどころか、存在に気づく者すらほとんどいなかった。音楽が他のあらゆる音を覆う中、ニルが勢いよく開けた扉の音は誰の耳にも届かず、寝ている者以外、皆、酒を飲みながら談笑しているか、青年達の演奏に聴き入っているかのどちらかだった。
ニルの心の中に確かに生まれたときめきと呼ばれる感情は、次第にしぼんでいった。代りに生まれ、徐々に増幅していったのは、この全く馴染んだことのない状況に対する戸惑いだった。ニルは、どうすれば良いのか、誰に声をかけ、助けを求めれば良いのか全くわからなくなっていた。
「君、何歳だい?」
野太い男の声がニルに向けられた。ニルは一瞬、あの男が店内に入ってきたのだと身構えた。だが実際にはそうではなかった。
「どこから来たんだ? 親御さんは? 困るな、子供がこんな時間に酒場に来ちゃ」
大人顔負けに身長の高いニルを、更に見下ろすほどに背丈が高く、おまけに横幅も広く屈強そうな髭面の大男が、苦々しい表情でニルに向かってそう言った。
「助けて下さい! 変な男が僕を追いかけてくるんです!」
ニルはその大男の迫力にもひるまず、はっきりとそう言った。ニルは、その大男とあの細長い黒服の男を頭の中で見比べ、明らかに、目の前の大男の方が力持ちで、喧嘩にも強そうだと、心強くなっていた。
「ん? どれどれ、どこにいるんだい?」
大男は、目を丸くして入り口の扉の方に歩み始めた。
「こっちです」と、ニルは先になって扉を開けた。二人は店のすぐ外に出た。
しかし、店の外のどこを見渡しても、あの男はどこにもいなかった。
「おい、どこにいるんだその男は」
ニルは頭の中が真っ白になり、何も答えられなかった。
「聞いてるのか?」大男がニルの右肩に手を置いた。
「……さっきまですぐ後ろにいたんです! くそ、どこにいるんだ……! きっとどこかに隠れてるんですよ!」
ニルは大男に訴えた。
「まだ近くにいるはずです! 一緒に来てください! そいつを懲らしめてやってください!」
ニルは大男にそう促したが、大男はそれをあっさりと拒んだ。
「何言ってるんだ君はさっきから。そんな男はどこにもいない。それで話は終わりだ。俺は今仕事で忙しいんだ。だいいち、君、背は高いがどう見ても子供だろ? 未成年が一人で二十三時以降に酒場に入るのは島の条例違反なんだ。だから早く家に帰ってくれ。店に入れた俺が捕まっちまう」
ニルは愕然とした。当たり前のように助けてくれると思っていた頼るべき大人が、自分と自分自身の身に迫る危険について全くの無関心であり、それどころか、条例に関わることとは言え、自らの都合のことばかりしか考えていないことに、激しく失望した。
しかし、失望の落とし穴に嵌まっている暇はないと、ニルは直感的に理解していた。大男の言うその条例のため、店で一時的にかくまってくれることすら期待できないこの状況で、数秒後に待っているのは、店をしめ出されることのみだ。
そうして頭の中を最大限に回転させ、ニルは次の言葉を導き出し、大男に告げた。
「僕の名前はニル・ユーテです! 父親はブザ・ユーテです! ブザ・ユーテはここの常連でしょ? 助けてください、お願いします!」
ニルは、これでようやくこの人は僕のために動いてくれると確信した。しかし——
「誰だ? そいつは」
大男の口から出てきた言葉はそれだった。
「ブザ・ユーテですよ! 父は仕事の後、何年も前から時々ここに通ってました! 口と顎に茶色い髭の生えた、僕と同じくらいの背の、元軍人で今は図書館で働いてる、ブザ・ユーテです!」
「あー、悪いが俺はこの店の人間じゃねえんだ。代理の者だ。この店の店主は風邪ひいて家で寝込んでるよ」
衝撃的な事実を知らされ唖然とするニルをよそに、大男は続けた。
「だからよお、店主がいねえ間に面倒なことがあると俺も店主も困るんだ。だから、ほら、早く帰れ。子供がこんな時間に酒場に来てどうする。この村は治安が良いんだ。お前の言うそんな男なんていねえよ。寝惚けてんじゃねえのか?」
そう言って、大男は店の中に入ろうとした。すかさず、ニルは大男の腕を両手で掴んで止めようとした。「待ってください!」ニルは必死に訴えた。大男は、「しつこいぞ」と言い捨て、ニルをいとも容易く払い除けた。ニルは転んで尻餅をついた。
大男は店の中に入り、扉は閉められた。ニルが起き上がろうと地面に手をついた時、ニルの背後から声が聞こえた。
「君」
大人の男の柔らかい声だった。振り返ると、あの黒服の男がニルを見下ろしていた。
「ちょっと、僕とお話しをしてくれないかなあ」
その男は目元に笑みを浮かべ、ニルにそう言った。