ロノミーの湖水(五)
昼食と同様、その日の夕食は誰一人として喋る者はいなかった。ランプの光を頼りに、各々が静かに料理を口に運んだ。食器が擦れる音や、小さな咀嚼音だけが食卓に響いた。不意にニルが、「ご馳走様でした」と言って、自分の食器を片付けた。そして、「父さんの部屋に行ってから、それから寝るよ」と言い残して階段へ向かった。
ニルが、がちゃりとブザの部屋の扉を開けると、暗い部屋の中で、ブザは変わらずベッドの上で目を開けたまま横たわっていた。ニルはランプを点けず、月明かりのみを頼りに、ブザの顔を覗いた。ブザは、目を開けて真っ直ぐ天井を見ているかのようだったが、実際には何も見ていないようにも見えた。その表情は、やはり何度見ても、かつての父と同じ人だと思えないほど変貌していた。
「父さん、ごめん」
ニルはそうつぶやいたが、ブザの返事はなかった。
ふと気付くと、開けっ放しになっていた扉から入室したメルが、いつの間にかニルの隣に並んでいた。
メルは、しばらく父の顔を見つめた後、何も言わずニルの顔を見た。ニルも、メルの顔を見た。眉を少し八の字に曲げたメルの顔は、ニルに何か——ことさら、父をやはり救って欲しいこと——を訴えているようだったが、ニルの脳裏にはすぐにカムアの顔が浮かび、ニルは反射的に、メルの訴えを無意識のうちに拒んだ。ニルは、弟の前で目を伏せた。
*
——ニル……、ニル……!
誰かがニルの名を呼んだ。それは、今夢の内側にいる、元気だった頃の父の声ではなかった。それは女性の声だった。声は夢の外側から聞こえた。
——ニル……! ニル……!
その声は、少しずつ大きくなっていった。そうして、ニルは目を覚ました。声の主はチウだった。チウは、火のついたランプを手に持っていた。
「ニル、やっと起きたか」
ニルは混乱した。部屋は真っ暗で、まだ夜は明けていなかったからだ。
「ばあちゃん、こんな時間にどうしたの?」
ニルは寝ぼけ眼にそう言った。
「支度しな、ニル」
「何の?」
「アイムアの森に行く支度だよ。ほら、もたもたせんで、ベッドから降りな」
ニルは、状況が全くつかめなかった。もう、その森には行かないと決めたばかりだし、あの時、ばあちゃんも同じ部屋にいたはずだとニルは不審に思った。
「ばあちゃん、僕はアイムアの森には行かないよ。母さんを心配させたくないし、もしものことがあって、母さんを悲しませたくないんだ」
「じゃあ、お前はあの森に行きたくないのかい?」
「それは……」
ニルは言葉に詰まった。そして、
「行きたいよ」とつぶやいた。
「でも、どうすれば良いの? 母さんが寝てる間に黙って出かけるの? きっと、朝、母さんは驚いて声も出ないよ。それに、僕だって、アイムアの森に行って、必ず生きて帰ってこれる自信は、本当はあまりないんだ……」
少し弱気な語調で、ニルはチウにそう言った。しかし、チウは、ニルに対し、次のように言った。
「ニル、あたしには策があるんだよ」
チウの目は静かに、しかしぎらぎらと光っていた。そうしてチウは、床から、布で包まれた棒状のものを拾った。その紺色の布は妖しい光沢があり、ずいぶんと高級な雰囲気を醸し出していた。
「これは、バート教に伝わる秘技でこしらえた道具だよ。本当はバート教の者、しかもあたしくらい長い教徒じゃなきゃ使っちゃならんし、誰かに存在を教えることすら許されんもんなんだが、あたしも迷ったけどね、バレたら破門は間違いないが、今回は使わせてもらうことにしたよ」
チウは、それを包んでいる布を外した。それは、一見なんの変哲もない木製の杖だった。
「こいつはね、ジャガの杖と言う。かなり強力な武器になるはずだよ。こいつにはあたしが毎日祈りを捧げていた。かれこれ十年くらいになるね。こいつを、剣を振り回すくらいの速さで振ると、ぶつかったものに、その力の何倍もの衝撃が加わる。巨岩を砕き、大木をなぎ倒すくらいの衝撃がね」
ニルは、唾を飲み込んだ。毛が逆立つような感覚がした。
「その杖で、熊や狼を追い払えばいいんだね……」
「そういうことだ。アイムアの森に熊や狼がいるかは知らんがね。ゴリラや大蛇かもしれん」
「触ってもいい?」とニルは真剣な表情でチウに尋ねると、チウは、「ほれ」と言って、ジャガの杖をニルに差し出した。ニルは、それを恐る恐る受け取った。
「これで……」
ニルは、この杖で獣を倒すことを想像した。ニルはこの杖を頼もしく思った。しかし、それは同時に恐ろしいことでもあった。
「ばあちゃん、僕がこんな武器を使っても良いの?」
ニルはチウにそう尋ねた。
「……動物を殺すのが、怖いか? それとも気が引けるか?」
チウは、ニルの心のうちを見抜いた。
「それは……、両方かな」
ニルは素直にそう答えた。
「まあ、そりゃあそうだろうな。あたしだって熊だろうがゴリラだろうが殺したくはない。だが、襲われたら反撃せねば殺されるし、森に入らねばお前の父さんは死んじまう。ただそれだけのことだ」
ニルは再び杖を見た。そして、
「わかった」と、力強く言った。
「よし。ところでこのジャガの杖だが、大事なことがある。この杖の効果は、三回か四回程度だ。効果が消える前の最後の一振りの後、折れてしまう。気をつけなよ」
「わかったよ、ばあちゃん」
ニルの目には光が戻っていた。
「うむ。さて、お前に渡したいのはこの杖だけじゃない」
「他にも?」
驚くニルをよそに、チウは懐から小さな袋を取り出し、さらにその中から、一房の果実を取り出した。それは、さくらんぼによく似た、小さな赤い果実だった。
「これは死んだ爺さんの形見の、シャルという果実だ。永久果実と言ってね、木から摘むと、永久に腐らないし干からびない。何十年も前まで、これは爺さんの故郷のローフ島の限られた場所で栽培されてたんだが、今は絶滅してしまったようだ。見ての通り、さくらんぼのように柄が二股に分かれておる。片方を残し、もう片方を土の中に埋めるなどしておく。そして残したもう片方の実を食べると、食べた者がどこにいようが、その埋めた場所まで飛んでいくというわけだ」
「すごい……」
ニルは思わずそう言った。
「埋めた場所への移動は、一旦雲の上くらいの高さまで弧を描きながら上昇し、そのまま同じような曲線を描いてゆっくり下降する。なるべく広い場所に実を埋めて、なるべく広い場所で食べるのが得策だが、森の中では難しいだろう。木の枝にぶつかって、多少の怪我は覚悟しな。気休めだが、後で頑丈な革の服をやるよ。爺さんの形見だ。お前は背が高いから、着れるだろう」
「もし、どうしても逃げるしかない時は、この果物を食べればいいんだね」
「そうだ。それと、ロノミーの湖水を手に入れた後な」
「じゃあ、今すぐじいちゃんの服に着替えるよ。そして、行ってくる」
ニルがそう言った後、部屋の扉が開いた。一瞬、ニルは、カムアが来たのだと焦ったが、扉を開けたのはメルだった。
「ばあちゃん、兄ちゃん、僕もアイムアの森に行かせて」
「メル、聞いてたのか!」
ニルは驚いてそう言った。
「なんだ、メル、いたのか。ちょうど良い。この後お前を起こしに行くところだった」
チウは、落ち着いた様子でメルにそう言った。
「え? そんな……、メルには無理だよ、ばあちゃん。メルはまだ小さいから、危ないよ!」
ニルは、うろたえるように、そうチウに訴えた。
「わかっとる。メルに、ニルについて行けなんて言わん。メルには、この家にいながら、ニルの手助けをしてもらう」
ニルもメルも、首を傾げた。祖母が何を言っているのかわからなかった。
「二人とも、あたしの部屋に来なさい」
ニルとメルはチウの後に続いた。