” 神様 ” ってなんだろう? 《前編》
「神様」と聞いて、皆様はどんなイメージを思い浮かべますか?
偉大な存在、光、天使、天照大御神、など、多種多様に、各々が感じる「神」という存在をイメージすることでしょう。中には「自分!」というステキな回答の方もいらっしゃるかもしれません。
では、そこに「正解や間違い」はあるのでしょうか?
私も「これが間違っていて、これが正解だ!」と自信をもって言えないかも(笑) 信仰は自由であるし、その人にとってソレが神であれば《神》なのでしょう。
それでも、世界は「宗教」という形で、各々の信仰している「正義」を押し付けようともします。
イエス・キリストが全能の神だ!いや!ヤハウェだ!アッラーだ!など。
そう、信仰は「争い」の引き金にもなるもの。
宗教や信仰は、自由であるからこそ、、、
” 人の命を救い、人の命をも奪うもの ” と私は捉えているし、このように、「神」という存在を物心ついたころから探求し続けている。
39年生きてきて、まだまだ人間としても未熟ではございますが、、、現段階で感じていることは様々ですが、まず最初にお伝えしたいのは、神様の世界にも「陰陽(光と闇)」があることです。
例えば、古代太陽神であるラーやミトラ、日本の天照大御神が陽の神様として、そこに対比させるように、月の神様、星の神様、夜の神様と陰の神様がいるわけです。
貧乏神、疫病神、死神、といわば皆から嫌われている神様もいます。
でも、よく、みてください。
「神」がついています。トイレの神様~というのもよく聞きますが。
西洋だと「天使と悪魔」がわかりやすいでしょうか?
拙著「ブラック風水(主婦の友社刊)」にも書かせて頂いておりますが、、、
悪魔も元は天使であり、堕天し、羽がなくなることで悪魔と化す~など。
元は同じ「生まれ」なのです。
このように、嫌がられる、煙たがられる、できれば関りを持ちたくない神様たちも、立派な神様であることを忘れてはなりません。
誰でも光り輝く存在の神様になりたいもの、それでも「闇」を担う、わかっていながらも「罪穢れ」を全て受容した神様って、物凄い光の存在に私は見えるのです。
そこに「無償の愛」を感じてなりません。
これは、人間界に置き換えることもできますね。
善人、悪人。
私たち一人一人の内面にも「善悪」が宿っています。よく講演会などでも言いますが、人が想像できうる範囲のことは、やるかやらないかは別として「現実化」はできること。
例えば、嫌な上司がいて、どうにかいなくなってほしい!と念じて、その念が叶ってしまうこともあるでしょう?
人によっては「じゃあ、自分が異動するなり、転職をすればいいや」と己を動かして解消する場合もあります。
さらに悪に偏るならば「殺してやりたい」「死んでくれないかな~」など、人間らしい呪の発想まで出てくることだってあります。
つまり、私たちが想像する世界はどんな形でも現実化しやすい、しかしそれをどう実行するか、という選択の違いがまずあります。
そこには「感情(情緒)」が大きく関わってきます。
いつでも、私たちは悪人という犯罪者になり得るし、マザーテレサのように手を差し伸べる善人にもなり得るわけです。
じゃあ、犯罪者=悪で、マザーテレサのような施し=善、か?というと、、、
この部分に関してのパワーバランスって、きちんと見極めないと「真意」に気づけないものです。
神様の世界にも「神意」があるように、私たちの世界と、神様の世界は表裏一体に連動している、こう私は捉えています。
そう、中庸に捉えられるようになったのは、私自身の内在している陰陽(善悪)を消化していっているからだと自分では感じています。
ただ、これが正しいか?と言われれば、、、
「正しいだろうし、間違ってもいるだろう」
というのが私の現段階での答えです。
どれも紙一重であり、鏡合わせであること、これを強く感じています。
愛新覚羅ゆうはん
これから、白い山と黒い川では、私と黒川さんがとらえた「神様の世界」というのも紐解いていくわけですが、ぜひ、黒川さんからも「神様とはなにか?」も聴いてみたいと思います、次回の手記をお楽しみに。
” 神様 ”ってなんだろう?《後編》はこちらです!
はじめていらした方は必ず「白い山に黒い川について」の記事をご一読くださいませ、よろしくお願い申し上げます。