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長編小説『becase』 11
急に辞めるのかと言ってきた美知の表情からは、私が辞める事に対して美知はどう思っているのかという事が全く掴めない。嬉しく思っているのか、悲しく思っているのか、はたまた、その貼付けられた表情のように、私が辞めるか辞めないかなんて事はどうでもいい事なのかもしれない。ただ、どうでもいい事を普段あまり喋らない美知が自ら聞いてきたりするだろうか。
「うん、そうなの」
私の両手に抱えられている資料の束が重い。一刻も早く自分のデスクに戻り、これらを置いてやりたいのだけれど目の前には美知が立ち塞がり道を開けてくれない。
「……そうなんですか」
と言って、俯いている美知の表情は、やはり何も表していなかった。「ちょっと、ごめんね」と言って、美知の横を通り抜けようとした時に、美知は小さな声で私を呼び止めた。
「……あの」
俯いたまま発せられた言葉は、コピー機の機会音にだって掻き消されてしまいそうな程に弱々しい声で、私にはその声が聞こえなかった。
「……あの!」
異様に大きな声がオフィスに響いた。私は驚いて美知の方を振り返り、オフィス内にいるほとんどの人間が美知の方を見た。普段、大きな声なんか出す事のない美知に私どころか、今この空間にいる全員が驚きの表情を向ける。その異様さにやっと気付いた美知はまた俯き、「あ……いえ……」と本当に小さな声で言った。一時の惨事に反応した何人もの人間は徐々に自分の仕事に戻り始め、その惨事を自分が見てしまった少し間違った夢だとでもいうかのように、何もなかったという空気がオフィスに流れた。私も同じく、振り向いた体を元に戻し、自分のデスクに歩き出した時、美知が私に近づき
「今夜、飲みに行きませんか?」
とまた随分と小さな声で言ったのだ。もちろん、美知から誘われた事なんて初めてだったし、私はまた変な夢を見ているのだなんて思ってしまう。でも振り向いたそのすぐ近くに美知がいて、彼女はやっぱり無表情だったけど、まっすぐに私の目を捉えていた美知の目が、その夢を現実のものとしてしまったのだ。