長編小説『becase』 14
「でも、どうしてですか?」
「……なにが?」
「それで、なんで仕事を辞めるんですか?」
私は美知を見つめた。なんて奇麗な肌をしているのだろう。こんなにこの子を近くで見た事があっただろうか。目元に控えめに存在するそのほくろは、男を落とすのにもってこいなのに。
「美知ちゃんは、彼氏いる?」
無言のまま首を横に振った。一往複もしないくらい、控えめな振り方だった。
「私は、その人の事が大好きだったのね」
ずっと、自分の前に置かれているチチというお酒を眺めている美知が、本当に私の言葉に耳を傾けているのかどうか分からない。もしかしたら、私の言葉なんて無視して、それよりも後ろで流れている、ジャズ音楽に身を寄せているかもしれない。それでも私は続けた。
「彼がいる事が当たり前だった人生なのに、急に彼がいなくなった。大きな変化、だから仕事を辞める事なんてそれに比べたら全然大した事じゃないのよ」
表情を変えないまま、彼女はチチを見つめていた。一瞬口を小さく開き、何かを言おうとしているのが伺えたけど、結局何も言う事のないまま、視線を動かす事もなかった。
煙草の煙の出所が、私たちの座るカウンターから少し離れたその場所にいる男性だという事にようやく気付いた。人差し指と中指の間に挟まれた白く燃えるその煙草が異様な程、私にはよく見えた。口元に運ぶ指先、そして少し髭を蓄えたその口元、よく見える、よく見えるけど口以外に存在しているであろう顔のパーツはやはり闇の中に葬られたままなのだ。
そんな口元に見惚れている間も美知は何も言わずにチチを眺めていた。それに口をつける事もなく、口は堅く閉ざされたままで。
「だから、辞めちゃった」
私は変に明るく振る舞おうとしていた。そんな自分に気付いた時、私が彼に捨てられた人間であるのだと気付いた。自分の行動に自分の気持ちが気付かされるなんて、とても孤独。今、私の気持ちに寄り添う人は、この世界には誰一人としていないような気がした。