長編小説『becase』 43
熱いシャワーを浴びたい。ふと、そう思った。一日の疲れで汗がべっとりとついた体や、こんなよく分からない状況を、高い温度のお湯で今すぐ一気に流してしまいたいって強く思った。
「あの……」
私はまた口を開いた。それこそさっきよりもっと無意識の中で発せられた言葉のように感じる。
「……はい?」
彼は随分と間抜けな声を出したけど、その目だけは何か強い意志を感じられる。
「帰ってください。じゃなきゃ警察に……」
「分かりました」
彼は私の言葉を遮った。何度か頷いて、勝手に何かに納得している風のまま、私のいる方とは反対側へ体を向け、歩き出した。二十メートルだった距離は三十メートルになり、やがて五十メートルになり、いつか彼の姿が見えなくなった。私はやっと安心して自分の部屋へ向けて歩を進める。家に入り、今起こった出来事をゆっくりと思い出していると、さっきまであれだけ浴びたいと思っていたシャワーなんか忘れて、いつの間にか眠りの中へ落ちてしまっていた。
夢にまで出て来てしまう程、私は彼を意識していたのだろうか。その意識に付随しているのが、愛に関する事ではない事は分かっている、ただ日常から少し外れた出来事に直面した時に起こるショック状態に陥ってしまっているだけだろう。とにかく、次の日に私が目覚めた時に、私の頭の中には確実に昨日見たばかりの彼の顔があって、拭おうとしても拭えない程、濃く、べったりと付着していたのだ。
その付着した顔を払うように冷たい水で顔を洗い、熱くなったフライパンに卵を一つ落とした。トースターに食パンを入れ、お湯が沸けばいつも使っている黄色いマグカップにドリップ式のコーヒーを入れた。ぼんやりと食パンを食べ、目玉焼きただ一つだけ置かれている真っ白なお皿を眺める。私が家を出るまであと十分もないのに、どうにも身が入らないのは、別に今日に限った事ではないし、それならもう少し早くに起きればいいという事だって分かっているけれど、どうにもそううまくはいかないものなのだ。結局、あまり時間もないくせに、朝ただぼーっとして、身が入らないな、なんて思う事が私の日常であり、きっとやめられないのだ。
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