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長編小説『because』 62

 ウェイトレスの女性が私たちの前に二つのペスカトーレを並べた。ごろっと大きめの魚介類が赤いトマトソースと絡まり、そこから沸き立つ香りが私の食欲を掻き立てる。その後すぐに小さな六種類のチーズが乗せられているお皿が一つ私たちの前に出された。
「サービスです」
と言ってギンガムチェックの前掛けを付けた女性が彼に一瞥をくれた。彼はきっと外でいつも見せているのだろうという笑みを女性に返し
「いつもすみません」
と小さな声で言った。その笑顔が家でたまに私に向けられるそれと同じである事に気付いた時、心が少し痛んだ。
 私たちは無言のまま、フォークにパスタを絡め、それを食した。チーズを一口頬張った彼が
「ワインが飲みたくなるね」
と独り言のように言った後に、ウェイトレスの女性に声を掛けた。女性がそれに反応し、私たちのテーブルに来る前に「沙苗さんも頼む?」と言った。私はパスタを口に含んでいる最中だったから、首を縦に小さく降った。
「グラスワインの赤を二つお願いします」
ウェイトレスの女性が手元の伝票に何かを書き足し、厨房に戻り、すぐに二つのグラスが私たちのテーブルに並ぶ。まだお皿に残るパスタをそのままにチーズを一つ口に運び、ワインを静かに飲んだ。既にパスタを食べ終えていた彼も同様に、チーズを食べワインを飲んでいた。彼の左手には彼の食べた跡の付いた、なんという種類か分からないチーズがあって、そのチーズを忘れてしまったかのように彼はガラス越しの商店街を眺めていた。チーズと一緒で私だってここにいるのか分からなくなってしまう程、彼の意識は別のどこかにいってしまって、そこには私が付け入る隙がただの一ミリも存在していないように感じられた。

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