長編小説『becase』 23
骨の残骸が皿に残る頃に、私の涙も完全に枯れた。頬を濡らした水滴が渇いたせいで頬はパリパリと今にも音をたてそうな程、表面を固くしている。
「泣き止んだか?」
でんぱちがさっきとは別人かと思う程の優しい声を掛けてくる。
いつの間にか何人かの客が来店し、皆揃ってカウンター席やテーブル席に腰を下ろし、豚生姜焼き定食を頼んでいた。魚と合い戯れていたのは私だけで、それがまた私を随分と孤独へと追いやっていくようにも感じられる。カウンターの奥からは嫌というくらい生姜の匂いが溢れ出し、店主はさっきから忙しなく鍋を振り続けている。鍋から上がる煙に塗れて私からは店主の姿がぼんやりとしか見えない。
「……うるさいよ」
でんぱちの優しい声にむかついた。結局、女の涙に男は勝てないのだ。だったら、私も彼の前でもっと泣いておけばよかった。そうすれば、彼だって泣いている私を置いて消えたりなんかしなかったかもしれない。でももう、全て遅い。事は既に起きてしまっているのだから。
「うるさいって……冷たいなー」
「構わないで下さいよ。さっきから何なんですか……」
「いや、別に笑おうって訳じゃなくてよ、その、なんだ……心配してよ。あんたらいつも一緒に来てたのに、昨日はあいつが一人で来て、今日はあんたが一人で来てる。なんか変だなって思った、ただそれだけだよ」
耳にねっとりと付く嗄れた声が、少しずつ、本当に少しずつではあるけど、聞くに堪えないものではなくなってくる。気持ちを反転してしまえば、ある種の快楽さえその声に求める事ができるのかもしれない。
「……何もないですよ」
「何もって……さっきあんたは彼がいなくなったって言っただろう?」
「はい……いなくなりました。けど別に平気ですから」
「そんなに泣いていたのにか?」
「はい、泣いたけど平気です」
でんぱちは黙りこくり、その前に置かれた白い皿の上に油がべったりと張り付いている。
「おねえちゃん、俺な、あいつの居場所が分かるかもしれねえぞ」
そう言ったでんぱちの言葉も、もう今更信じる事なんてできない。それがいくら私の興味を惹く話題であっても、この人が言っている事全てが嘘に聞こえるし、私自信聞こうとも思っていない。
「……そうですか」
そう言って私は随分と重たくなってしまった体をカウンター席からあげて、立ち上がった。「ごちそうさま」と弱々しい声で店主に伝え、六百五十円を支払った。店主は相変わらず少しだけ微笑んでいるだけだった。店を出る時、「おい、おねえちゃん!」と言うでんぱちの声が聞こえた気がしたけど、私はそれを聞かなかった事にして店の扉を閉めた。
太陽が高く昇り、私を十分すぎるくらいに照らしている。商店街の一角にあるこの定食屋の前の通りには幾人かの人が歩いている。なぜ、こんなにも賑やかなのだろうと不思議に思った頃に、今日が日曜日だった事を思い出した。日曜日の昼下がり、青い空、春の空気。なんだか全てがいい意味しか持っていないような気がした。それなのに、なんで私はこんな小さな定食屋のカウンターの端っこで泣いていなくてはいけないのだろう。世界はこんなにも平和なのに、私はなんで苦しんでいるのだろう。
馬鹿みたい……。純粋にそう思った。忘れてしまう事が一番正しい事なのかもしれない、でも、そんな事はもうとっくに分かっている。それでも忘れられないから苦しんでいるのだ。彼が帰って来ない部屋に帰りたくない。そう思った。彼のいない部屋は、どうしたって私の部屋だって思えなかった。
日曜日……。彼はいつも何をしていただろう。ふと、そんな事を考えてみたりする。私の視界には、日曜日の商店街を歩く、たくさんの人がいる。