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『短編小説』第5回 逃避行 /全6回
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「お父さんな、みなとには自由にしてもらいたいんだよ」
自分の部屋の勉強机に向かい、ひたすら何かをノートに書き続けているみなとに向かってそう言う。部屋の電気は点けず、机の電気だけを点けているせいで部屋は(いやみな)明るさだった。
「母さんの言うように、勉強は確かに大切だし、いい大学に入ることも大切だ。……だけどさ、毎日毎日勉強ばっかりやってて大変じゃないのか?もっと他にやりたいことはないのか?」
俺がそう話しかけても、部屋に響くのはみなとがノートの上を滑らせるペン先の音だけだった。静かな部屋でノートとシャープペンシルの芯が擦れる音だけが響く。時計の秒針のように、害のない音だ。
「もっとさ、わがままになっていいんだよ」
普段息子の部屋に入るなんてことはない。俺が帰ってくる頃には、みなとは既に部屋に閉じこもって勉強していた。邪魔をしては悪いと思ってのことだったが、その閉められたドアからは近付くなというオーラが発せられているように感じていた。
「っま、そういうことだから。あんまり無理すんなよ」
そう言いながらみなとの肩を叩いた。相変わらずペンはノートの上を走っていた。
「ねえ、お父さんはさ」
部屋を出ようとした時、みなとはようやく口を開いた。
「ん?」
「どうしてお母さんと結婚したの?」
あまりに的外れな、というか突飛な話に驚いた。
「どうした急に」
「だってさ、なんだか全然違うじゃん」
「性格が?」
「なんかもう、いろいろ」
「いろいろって……」
「分かんないんだよ、どうしてあの人とこの人が一緒になるのか」
その質問に心が痛んだ。痛んだ理由は俺だって分かってる。今みなとが俺に聞いた質問は、今正に俺が抱えている疑問でもあったからだ。
「……ごめんな、毎日喧嘩ばかりで」
「別に、それは気にしてない。もう慣れたし」
「いやでも、そう思わせちゃってる原因の一つだ」
みなとはふーっと溜息を吐いた。
「別にいいんだ。それは。どうなったっていいし」
父親としてここで何か言ってやるべきだったのだが、頭の中には父親らしい言葉など一つも浮かんでこなかった。浮かんでくるのはただ一つ「みなと、父さんと一緒に家を出よう」という言葉だけだった。
「何にでも理由がある訳じゃない。……だけど、父さんと母さんはこうなるべくしてなった。みなとが生まれてきたのも、父さんと母さんの望みだった」
「いいって、そういうのは。俺ももうそんなに子供じゃないから」
確かに、こんな理由付けで納得するなんて思ってない。ただ、この他に理由なんて与えられそうになかった。全ては俺たちの意思じゃない。全ては天の運命(さだめ)だったのだと。
「みなとは……、どうしたい?」
「え?」
みなとは俺の顔を見て、きょとんとした。
「いや、だからどうのって訳じゃない。……今、みなとはどうしたいと思ってるのか聞きたかっただけだ」
「……どうって」
一呼吸置いてから、彼は続けた。
「分かんないよ、そんなの。今はなんか、勉強することしか知らないんだよ。だから勉強する。他に何かやりたいことがあったりもしない。勉強している間は、なんだか自分の存在が肯定されているような気になれるんだ。お前は正しいって言われてる気分。だから勉強する。将来どうだとか、何かの役に立つとか、そんなことは考えてないよ。今これしかないから、これをやってるだけ」
そう言って、椅子をくるりと回して机に向かってしまった。机の上の電気だけが部屋を照らし、机に向かうみなとの後ろ姿は酷く孤独にも見えた。自分は父親失格だ、そう思いながらも、俺はその部屋を後にすることしか出来なかった。
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