長編小説『becase』 12
「……どうしてですか?」
彼女の話し方は、いくつもの事柄を負に変えてしまう力があるように感じられる。別に嫌な意味で言っている訳ではないけど、良い意味で捉えろと言う方が無理があるのかもしれない。
照明が落とされ、湿った空気の中を煙草の煙が行き交っていた。カウンター席しかない店内で私の視界が捉えられる物なんて、カウンターの奥でシェイカーを降る若い男性と、その奥に並んだいくつもの種類のアルコール、それに隣に座る美知の覇気を微塵も感じられない表情だけだった。あとの物は空気に溶け込んでしまったように曖昧、店内にあるはずであろう幾つもの物は、この暗い照明のおかげで、完全に呑み込まれてしまっている。どこかから流れ出る音楽を聴きながら、私はゆっくりと美知の方を向いた。
「チチっていうの?このお酒」
軸が完全に外れた言葉を私は美知に投げかける。虚を突かれたように目を丸くした美知が、その後に自分の前に置かれたグラスを眺めた。こんなにも薄暗い店内なのに、そのお酒の色はいくら拭っても取れそうにないくらい、鮮やかに目に焼き付いている。
「ああ……はい」
そう言って、手元でグラスを転がした。私はもう一度聞いて欲しかった。もう一度「どうしてですか?」と言えばいいだけの事なのに、美知からまたその言葉が聞ける日なんて、もう一生こないのではないかと思ってしまう。彼女はずっと、自分の手元にあるグラスを眺めたまま、次の言葉を発する準備なんかせずに、”聞いてはいけなかった事なんだ”と自分を無理矢理にでも納得させようとしている様に見える。