長編小説『because』 87
「その人は誰ですか?」
彼女自身の存在は、人ごみに埋もれてしまう程に弱いのに、その感情のない目だけは随分とはっきり見えた。
「ああ……」
と言ってごまかそうとしている自分に気付いた後に、私はこの人が本当にどこの誰かなんて知らなかった事にも気付いた。たまたま定食屋で会った、きっとこの辺りに住む中年の男性であるのであろうという、それこそ憶測に過ぎない訳で、この人の事なんて私は何も知らない。
「でんぱちだよ」
ぶっきらぼうにでんぱちはそう答えた。美知の感情の入っていない目に臆する事もなく、むしろその目を探るようにじっと二人は見つめ合った後に、先に目を逸らしたのは美知の方だった。
「……そうですか」
目を逸らしたままそう言った美知は、まるで何か間違った物でも扱うかのように、もうでんぱちを見ようともしていない。
「まあとりあえずさ、どこか入ろうか?」
と仲裁をした私に続いて、でんぱちと美知はもう二度と目を合わせる事なく、私の後ろに付いて来ていた。その時は間違いなくそういう印象だったにも関わらず、店に入り、席に着いた途端に二人は昔からの仲であるかのように、お互いは言葉を投げ合い、空気に塗れ湿った言葉は、私なんてここにはいないかのように扱っている。
「それで、彼は見つかったんですか?」
二人はお互いの楽しそうな会話の途中に、ふと私の存在を思い出したかのように、私に言葉を振った。別に私は二人が楽しそうである事に不満は一切無かったし、今になって、さっき誰もいなかった彼の友達のあの人のドアの情景を思い出し、今まで思っていたそれよりももっと強く彼の存在を噛み締めていた。じわじわと悲しみに襲われて、じわじわと心は小さくなっていった。そんな事を考えていたから、急に話を振られる事なんてむしろ迷惑な話でもあって、私は「ああ」とか「うん」とか元々投げられていた言葉が質問だったにも関わらず、そんな事は関係なしに、意味のない音をただ口から漏らしているだけだった。
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