長編小説『because』 63
「美味しい」
なんていつも発する独り言のような口調で彼が突然言った事に、もちろん私は気付いていたけど、それがいつもの独り言だと思って特に反応を示さなかった。
「ね、沙苗さん」
そう言われてやっと私に言っていたのだと気付いて、彼の方に目を向けた。そうすると、さっきまでガラス越しに視線を移していた彼がいつの間にか私の方を見ていて、そんな事でも私は随分と驚いてしまい、返す言葉に詰まってしまった。
「どうしたの?」
彼は笑いながら私の返事を待たずに言葉を続けた。私の動揺した様子を少しばかり楽しんでいるようにも見える彼は、その後すぐにガラスの向こう側へと視線を移した。
「来た」
彼はガラスの向こう側にいる誰かに目を奪われ、その人を目で追った。つられた私もガラスの外側に目を向けるけど、たくさんいる人の誰を彼が目で追っているのか分からない。
店内のドアが開いた。ドアに付けられているベルが鳴ると同時にウェイトレスの女性が「いらっしゃいませ」と上品な声を出し、ドアを開いたその人の元に近づく。その人は右手で女性の動きを制止して、窓際に座る彼に目を移した。彼が軽く手を上げて、その人も少しだけ手を上げながら、静かに笑った。待ち合わせだと気付いたウェイトレスの女性がその場を離れて行き、すぐにグラスに水を注いだ。彼は私の向かいの席を立ち上がり、私の隣の席に移った。言葉を発する事なく私たち二人の向かいの席にその人を促して、それに流されるように、というか、彼の動き自体が流れるように、私たちの向かいにある二つの席の内の一つに腰を下ろした。
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