6世紀のローマの歴史家たちの歴史観
大学2年の夏休みに勉強した内容をまとめたゴミ
ここで供養します。
序論
本論の目的は、6世紀のビザンツ帝国における歴史思想を提示することにある。6世紀の歴史叙述は盛んであった。ギリシア語が帝国を占め、それ自体が歴史記述と大きく結びついており、それぞれのギリシア語が、それぞれの歴史叙述のジャンルをなしたといえる。すなわち、コイネーで書かれた「教会史」、古典的なアッティカ方言で書かれた「歴史」、民衆ギリシア語で書かれた「年代記」の三つのジャンルがあった(フィルハウス、1984)。
今回取り上げるのは、ギリシア古典を十分に踏まえた上で書かれた「歴史」である。ビザンツ知識人が知識人として官僚として働くためには、ギリシア語の文法と古典を自分自身の元として、修辞をこらした文章を作成する技術が必須とされた。したがって、ビザンツにおける歴史叙述の担い手は、政治家であったり、皇帝の側近あるいは弁護士や高級官僚であった。彼らは宮廷の内部で社会生活を送る一方で執筆活動に従事したのである。このように古典はビザンツにおける必須技能であり、このような伝統を背景にして書かれた創作物は、独自のビザンツ文化を形成するに至る。
この「歴史」の特徴は以下の2点にあると言えよう。
まずはじめに古代末期の歴史家にとっては古典としてのギリシアの歴史家がいた。ヘロドトスやクセノフォン、ポリュビオス、そして特に模範とされたのはトゥキュディデスである。後世の歴史家は、彼らの文体を真似したのである。例えば、その構成は冒頭に歴史的な展望が付され、本文の叙述が年代順に記されていった。トゥキュディデス同様、戦争に関する記述が多く、その脱線話として文化史や民族誌、地誌が述べられている。大抵は、同時代史であり、著者の体験に基づいて書かれるのが理想であったが、先駆者の著作を丸写しあるいは要約するにすませるものもあった。引用する際は、直接引用するのではなく、著者の言葉で置き換えなければならないし、思想を語る際には語りの形式が取られたのであった。
二つ目の特徴を本論では示したい。古典を踏まえた上で、独自の歴史思想が形成されていったことである。つまり、古典やキリスト教といったさまざまな要素の中で、歴史の事象の対して決定論—不可知論という立場をとったことである。歴史の因果や由来は全て運命(テュケー)あるいは神に由来する。運命は、ここで取り上げる歴史家の中心思想となっている。
ところで、キリスト教世界において異教概念が、用いられているのは不思議に思われるかもしれない。しかし、ギリシャ古典素養を積んだ彼らからすれば運命(テュケー)は、異教概念というよりも一種の固有財産であったとしてとらえられため、因果を説明する概念として選ばれたのも不思議ではない。むしろ因果を説明する際に用いられた概念が運命(テュケー)ほどしかなかったからであろう。従って、古典的素養を積んだ教養人が異教的概念を用いることはごく自然なことであった。
本論では、三人の歴史家に焦点を当てて論証を進める。第一章では、ゾシモスを扱う。彼は、『新しい歴史』全6巻を記し、トロイア戦争以降のギリシア史から書きはじめ、帝政ローマへと至り、410年のアラリクスによるローマ攻略の直前で終わっている。ここで取り上げたいのは彼が明確にポリュビオスを意識したこと、そしてコンスタンティヌス大帝を批判していることである。本論では、ポリュビオスとの対比から彼の運命観を明確にする。第二章では、プロコピオスを扱う。彼はユスティニアヌス帝治世下の人間で、将軍ベリザリウスの秘書を務め、その記録は『戦史』全8巻にまとめられている。ユスティニアヌス帝の正式な依頼から彼の建築事業を讃える『建築について』全6巻も記している。さらに、ユスティニアヌス帝の内情を暴露する『秘史』を記しており、ベリサリウスとその妻アントニナの悪行、ユスティニアヌスとテオドラの容赦ない批判が描かれている。ここで扱いたいのは彼の中心思想であるテュケーとユスティニアヌス批判である。ここでは、『戦史』と『秘史』について取り上げてみたい。『秘史』が注目に値するのは、現在生きている皇帝を批判したからであり、そうして生じるリスクを負ってまで書こうとした姿勢には目を見張るものがある。第三章では、アガティアスを取り上げる。彼は、法律家、詩人であると同時に歴史家であった。彼は、法律家としての仕事に従事する一方で、プロコピオスの続きである552年から558年までを描く『歴史』全5巻を記した。この『歴史』の特徴は、余談が多いこととプロコピオスの強い影響を受けていることが挙げられる。特に、序文には、生きている皇帝であっても批判する姿勢を示している(Ⅰ.1.18)。このことはプロコピオスの『秘史』を想起させるものである。さらにその因果関係や由来についてはプロコピオスのそれとよく似通っているが、出来事の原因を全て運命や悪魔に帰することを好まなかった(Treadgold, 2007, 289)。ここで取り上げたいのは彼の考える歴史の役割と運命観である。彼はゾシモスやプコロピオスほど、個人に対する痛烈な批判を行った訳ではないが、歴史は人生の役に立たなければ意味がないとまでいっており、歴史に批判的役割を認めていた(Ⅰ,7.6-7.)。
この三人を選んだ理由は、その教養の高さから、先代の歴史家を踏まえているため系譜的な研究が可能だからである。ここでいう先代とは、古代ギリシアの歴史だけではなく、ヘレニズム期、帝政ローマの歴史家も含まれる。ゾシモスはオリュンピドロスやエウナピオスを、アガティアスはプロコピオスを参照している。したがって、『歴史』というジャンルを選んだ。また分析のために史料が多く残っているものにした。史料が残っているということは、それだけ多くの写本が作られ多く読まれたことを示している。従って、史料が残っているのはよく読まれたからであり、後世への影響が強かったといえよう。以上の理由から、ゾシモス、プロコピオス、アガティアスの三人を分析の対象として選んだ。
第一章 ゾシモス
第一節 生涯と立場
ゾシモスについては多くのことはわかっていない。フォティロスの『文庫』、コンスタンティノス7世の『抜粋』を踏まえると彼の生涯は以下の通りである。430年ごろ彼は、ガザの近くの小さな町アスカロンの教養ある異教の一家に生まれ、そこで普通教育を受けた。それからコンスタンティノープルで、職を得て5世紀の終わりまで、その職にいた。彼はコメスという地位にあり、『国庫の弁護人』(フィスコュンネゴロス=アドウォカトゥス・フィスキィ)という職についていたことが伝わっている。コメスについてはよくわからないことが多いが、彼が『国庫の弁護人』という訴訟を扱う職についていたことはわかっている。この職は当然、修辞学の素養が求められるので、彼が古典的素養を十分に身につけていたことがわかる。実際に、『新しい歴史』は古代ギリシャ古典のさまざまな引用がなされている。
彼は異教徒であった。フォティロスは、ゾシモスを「不敬虔な異教徒」であるとし(Phtius,98)、度々キリスト教徒への批判をおこなっていると著している。彼は自分が異教徒であることを隠しはしない。フォティロスが『新しい歴史』第二版と第一版の違いをキリスト教徒への非難の度合いと推測したのも、ゾシモスの持つキリスト教への憎悪を示している。数あるキリスト教批判でも特にコンスタンティヌス帝の非難は激しい。彼は、キリスト教を批判するために『新しい歴史』を書いたのだろうか。次に彼が『新しい歴史』を記した動機について見ていきたい。
第二節 『新しい歴史』とローマ衰亡
彼が古典的素養に恵まれていることは先に指摘したが、彼が特に意識したのは、ポリュビオスである。ゾシモスは、ポリュビオスの問題意識つまり「人の住む限りほとんどの全世界が、一体どのようにして、そしてどんな国家体制によって、わずか53年にも満たない間に制服され、ローマというただひとつの覇権のもとに屈するに至ったのか、史上かつてない大事件の真相」を明らかにするという意図に呼応し自らの執筆意図をこう語る。
私はここで、パルミラの破滅の前に起こったことについて言及することを省略することはできない、私はただ一時的な歴史を書くと公言しているが。なぜなら、ポリュビオスが、ローマ人が短期間のうちにどのような手段で広大な帝国を獲得したかを伝えているように、私の目的は、他方で、彼らの誤った管理によって短期間のうちに帝国を失ったことを示すことだからである(Ⅰ.57.1)。
従って、ゾシモスが『新しい歴史』を執筆する意図は、ローマの衰退を示すことにある。このようなポリュビオスとの対比の中で『新しい歴史』が記された(Treadgold, 2007)。
その内容についてであるが、全6巻のうち第1巻でトロイア戦争以降のギリシア史から書き始めペルシア戦争、ペロポネソス戦争、アレクサンドロス大王の覇権、それからディオクレティアヌス帝登位までの帝政史が扱われている。残りの5巻は、全てコンスタンティヌス大帝の叙述に当てられており、410年のアラリックによるローマ簒奪の直前で唐突に終わっている。このことは、彼が完成させることなく亡くなったことを示している。では、彼の問題提起に対する回答を見てみよう。
なぜなら、これらは見かけ上の原因の積み重ねによって将来の不測の事態に備え、思慮深い人は、人間の問題の管理は神の摂理の手に委ねられていると結論づけざるを得ないからだ。したがって、神の摂理(プロノイア)によって国家の力が奮い立ち警戒するとき、彼らは繁栄し、逆に彼らが神の不興を買うとき、彼らの問題は現在ある状態に没落する(Ⅰ.1.2.)。
彼にとって、ローマ帝国の繁栄を決めるのは神の恩寵によってであり、逆にを今日の状態にまで貶めたのは、神の摂理(プロノイア)であり、それは「神の不興を買った」時に現れるというのである。例えば、その冒頭ではローマ帝国が前進したのは運命(テュケー)によるところであるとした。この要因をポリュビオスの中心思想であるテュケーに求めたのは、偶然ではない(Ⅰ.1.1)。
彼の運命観が登場するのはここだけではない。当時の衰亡の理由は神の恩寵を受けられなかったから(Ⅰ.57.3)であり、ガイナスが蛮族に負けたこと(Ⅰ.14.4)そして、皇帝が誤って進軍した理由も運命(テュケー)によるものであるとしている(Ⅳ.24.1)。
では実際の叙述の中で、彼がプロノイアとして、ローマ帝国の衰退を導いた張本人は誰なのか。これは、コンスタンティヌスである。『新しい歴史』全6巻のうち5巻にかけてコンスタンティヌス帝以降の詳細な記述に充てられていることを踏まえるならば、ゾシモスはコンスタンティヌスを『新しい歴史』における転換点であると考えたに違いない。
平たく言えば、帝国の情勢が現在のような悲惨な状態にまで落ち込んだ第一の原因は彼であった(Ⅱ.34.2.)。
このようにゾシモスは、ローマ凋落の要因をコンスタンティヌスに求め、神がローマ帝国を見捨てた理由を彼にあるとしたのである。まずゾシモスは、余談として『世紀祭』について、シビラの神託を引用しつつ、詳細に述べたのち、この『世紀祭』をコンスタンティヌスが、怠ったためにローマが没落したと述べた。
経験が保証するところでは、これらの儀式が神託の指示に従って正式に行われていた間は、帝国は安全であり、ほとんどすべての既知の世界に対する主権を維持する可能性があった。一方、ディオクレティアヌスが皇帝の威厳を捨てた頃、これらが無視されると、崩壊し、不可避的に野蛮に堕ちていった。私が述べていることは真実以外の何物でもないことを、私はこれから証明しよう(Ⅱ.7.1) 。
これは彼の異教徒であったことを踏まえると自然な記述であるようにに思われる。しかし、彼がローマ衰亡をもっぱらキリスト教に求めたわけではない。ゾシモスは2巻29章から39章まででコンスタンティヌスを、新都の建設や地方政治や陸軍改革の失敗、放漫のための新税導入といった失態で強く非難する。米田(1993)はこの点を指摘し、ゾシモスが意図したのは、「ローマ帝国の没落を予見した神々の声に思いをいたすこと 」であるとしている。神々の声、つまりローマ帝国没落の要因とは「プロノイア」と「神の冒涜」であった。神の冒涜とは、先に述べたコンスタンティヌスによる『世紀祭』の廃止であり、「プロノイア」あるいは「テュケー」は、その帰結であった。ではゾシモスの運命観について、ポリュビオスとの対比から彼の歴史思想を見てみたい。
第三節 ゾシモスの歴史観—ポリュビオスとの対比で—
米田(1993)は、ゾシモスとポリュビオスがそれぞれのテュケー観に相違があることを指摘している。つまり、ゾシモスにとって歴史とは神の意志の実現そのものであった。例えば、ローマ軍が蛮族に負けた要因をテュケーに求めている し、序文において、「人間の問題の管理は神の摂理(プロノイア)の手に委ねられている」とまでいっている()。ゾシモスにおいて人間は神の意志に圧倒されている。一方、大戸によるとポリュビオスは、人間とテュケーとの間に緊密な関係を見ているという (Ⅴ.14.4)。ポリュビオスは『歴史』の冒頭で他の歴史家たちの口を借りて歴史を「運命の転変に雄々しく耐えうる術を教えてくれる最良にして唯一の師 」であるとし、さらにこう述べている(大戸、1984)。
運命(テュケー)が一転して牙を向けて来たとき、それに雄々しくそして気高く耐え抜くことができるかどうか、それがその人の完成度をはかるための唯一の試金石なのだから(Ⅰ.1.2)。
歴史のうねりの中で政治家として「史上未曾有の衝撃的な事件」を目撃したポリュビオスは、その歴史の中に運命の力を認めざるを得なかったが、それでもなお人間の合理的な精神を信じていた。しかしゾシモスはポリュビオスのようにローマの衰亡に人間の精神の合理性や理性による判断を信じることができなかった。その表れがコンスタンティヌスによる神に対する冒涜であり、それゆえに歴史から徹底的に人間の主体性を剥奪する。つあmり人間が歴史を決定するのではなく、知ることもできない外敵な力に抗うことなく命運を決定されている。
ポリュビオスはテュケーを多用しており、その用法も多岐にわたる。ポリュビオスにおいてローマ繁栄にテュケーの力を見ているとすれば、ゾシモスはローマ衰亡にプロノイアの力を見てとっている。テュケーもプロノイアもその意味において大差なく、用法も漠然としているのにゾシモスがあえてプロノイアを多用したのは、こういった理由によるところかもしれない。
従って、ポリュビオスにおいては、運命(τύχη)に耐え抜く問いの答えが『歴史』であるのに対し、ゾシモスにおいては運命(πρόνοια)が『新しい歴史』の解答となっている。ゾシモスが『新しい歴史』において示したかったのは、ローマ帝国が運命によって、衰亡していく様子であったと言えない妥当か。
第二章 プロコピオス
第一節 生涯と立場
プロコピオスは、500年ごろにパレスティナのカイサレイアで生まれた。彼の家族についてはわかってないことが多いが、貴族に関する同情やコネクションが散見することから、カイサレイアの中でもトップクラスの富裕層に属したのではないかと推測される。宗教的な面に関しては典型的なキリスト教徒として育ち、悪魔や奇跡を信じていたが、古典教養を受けているため異教徒や異端、旧来の文化に関しては寛容な態度をとっている(『秘史』13.7、11.14–42)。
彼は当代随一の教養人であった。どこで教育を受けたのかはよくわかっていない。しかし、その著作から彼が高い教育を受けているのは確実である。アッティカ方言のギリシャ語や修辞学、そしてトゥキュディデスを模範とした擬古調の文体を駆使し、ホメロス、ヘシオドス、ポリュビオスをはじめとするギリシャ・ローマの作家に造詣が深いことが窺える 。
彼の経歴についてだが、テオドラのサーカス劇について詳細に語っていることから、おそらくプロコピオスはテオドラの劇を見ていたのではないかと考えられる。従って、20歳ごろにはコンスタンティノープルにいたことになる。527年ごろにプロコピオスが将軍ベリザリオスの『顧問』として雇われたという記述 から、20代後半には、ベリザリオスの補佐を務め始めたと考えられる(『戦史』Ⅰ.12.24)。執事、側近、補佐官、時には副官として、ペリザリオスの遠征に13年従軍したのちに、首都で20年、先の体験をもとに『戦史』の第1巻から第7巻を完成させると同時にその補遺にあたる『秘史』を550年ごろに執筆した。その後、戦史第8巻を完成させ、最後に『建築』全8巻を執筆した。
次に、彼の立場について見てみよう。彼は経歴にあるように貴族主義的であり、それゆえに保守主義的傾向が強い。例えば、プロコピオスはユスティニアヌスの改革そのものを非難している。
さて、ユスティニアヌスは即位するとすぐに全ての秩序を混乱に陥れることができた。すなわち、彼はこれまで法律で禁止されていた事柄を国政に取り入れて、今まで慣れ親しまれてきた現代の諸制度をすべて破棄してしまったのである。…それも正義や国政のためにしたのではなく、ただすべてを新しくし、その新たなものに自分の名前をつけがたいがためであった(『秘史』11.1-2)。
ユスティニアヌスの改革を秩序の混乱とし、その目的を自身の名前をつけたいものであると断定するプロコピオスの態度は保守的である。彼の立場がよく現れているのは『秘史』12章12–14節である。プロコピオスは、この箇所でユスティニアヌスとテオドラの元老院議員に対する徴税を取り上げ、その2人を「私とわれわれの多くの仲間たちにはとても人間とは思えなかった 」としている(『秘史』12.14)。ここで言われる「多くの仲間たち」とは、彼に同調する反皇帝派の元老院議員、軍人、た大土地所有者たちを指すと思われる。彼らこそが『秘史』の読者であったのだろう。では、プロコピオスはこれらの読者に何を伝えたかったのか。彼の執筆動機を、『戦史』そしてその補遺である『秘史』について見てみる。
第二節 『戦史』『秘史』
プロコピオスはヘロドトスを踏まえて『戦史』の執筆意図を語る。
カイサレイアのプロコピウスは、ローマ皇帝ユスティニアヌスが東西の蛮族に対して行った戦争を、それぞれの戦争が起こった場所に応じて記録し、記録を欠く重大な行為を克服する時間の経過が、これらを忘却に捨て、完全に消滅させないようにした(『戦史』Ⅰ.1.1)。
このようにプロコピオスは、ユスティニアヌス帝下の戦争行事を忘れ去られないように記録した、という旨を宣言し『戦史』を始める。またユスティニアヌス帝下の戦争がペルシア戦争やペロポネソス戦争よりも偉大であるとし、この戦争の重要性を伝えている。
さらに彼は歴史の重要性を有意性に見てとっている。つまり、『戦史』が「現代の人々にとって、また将来の世代にとっても、偉大なものであり」、同じようなことが起きた際には、「最も役立つものである」と彼は考えている(『戦史』Ⅰ.1.2.)。ただ、記録するのではなく、将来戦争に向かう人々の何らかに助けになると考えているのである。
歴史に対する問題意識を明確にした。ではその記述の方法はどのようなものであるのかについて見てみたい。
レトリックには巧妙さが、詩には創意工夫がふさわしいが、歴史には真実のみがふさわしいというのが彼の信念であった。この原則に従って、彼は最も親しい知人の失敗を隠すことなく、関係者に起こったことを、それがたまたまうまくいったか、あるいは失敗したかにかかわらず、すべて完全に正確に書き留めているのである(『戦史』Ⅰ.1.4-5.)。
『戦史』にはプロコピオスの奴隷となった友人やベリザリオスの失敗までも描かれていることから、「すべてを正確に書き留める」という態度は一貫しているが、皇帝の失態を批判するというところまでは書ききれなかった。宮廷に近い彼が大っぴらに皇帝を非難することはできない。彼が、『戦史』の補遺として『秘史』を書いたのは監視の目を光らせていたテオドラがなくなってからであり、公開されることなく仲間達の間で回し読みされたらしい。「すべて完全に正確に書き留める」ことを目的として、別の方法で『秘史』は書かれた。
しかし私は、今回からは今述べたような執筆方法はとらない。なぜなら本書ではローマ帝国内の至る所で起きたすべての事件を書き留めることにしたからである。その理由は、これらの諸事件を起こしたあの張本人たちが生きている間は、本来あるべき適切な方法で執筆することができないからである(『秘史』1.1-2.) 。
すべて書くためには、別のしかたで書かなければならなかった。このようにして書かれた『秘史』でさえ、テオドラの死後 になってようやく書かれたのであるから、宮廷は相当危険な状態にあったのだろう。このように『戦史』とは性格を異にする『秘史』には別の意図もある。
というもの、本書を読めば未来の暴君たちにも悪行の報いは自分たちの身にも降りかかってくるのだ、ということが明らかになるに違いないと考えたからである。…そのうえ、自分たちの行いや性格が永遠に書き残しされることになると、暴君たちも違法な行いに走るのを躊躇することになろうとも私は考えた (『秘史』1.8)。
ここに述べられているよう『秘史』では、「自分たちの行いや性格」つまりユスティニアヌスとテオドラの暴挙その経歴や性格、容姿が詳細に語られている (『秘史』6.1-29、9.1-34.)。そしてこれを記述するのは、未来の皇帝の不当な行為を妨げるためであるという。この未来志向的な見解は、戦史と共通している。
こうした個人に焦点を当てた記述もプロコピオスの歴史の特徴である。こうした性格を『秘史』が持っている以上、『秘史』はプロコピオスの立場、意見、思想や偏見が強く反映されているといわざるを得ない。したがって、『秘史』を中心に分析を進めてゆく。
第三節 テュケー
『秘史』は『戦史』とは対照的に、ユスティニアノスとその妻テオドラを激しく非難する。プロコピオスは、ユスティニアヌスを「偽善家で、狡猾で、上部を飾るだけの人間」「悪魔の大王」とした上で、2人が全ローマの臣民を破滅に追い込んだ張本人であるという (『秘史』9.34、13.9)。後半では、サーカスや税をはじめとした諸制度、改革を批判している。『秘史』はテオドラの死後書かれたものであるため、彼女への批判も容赦ない。プロコピオスは、テオドラを運命の女神にならぞえて揶揄している。
それはまるで運命の女神テュケーが自分の力を誇示しているかのようであった。運命の女神は、人間世界での出来事をすべて支配しているので、それらの出来事が道理に適っているとか、あることがある人物には不合理に見えるのではないかとかいうことを少しも気にかけないのである(『秘史』10.9-11.)。
ゾシモス同様に、運命が歴史を左右するとプロコピオスは述べている。したがって、これらユスティニアヌス、テオドラによる蛮行は、すべて人間よりも高次なところ(テュケー、神)によって決定されている 。しかし、これは『秘史』の批判的性格を踏まえれば、歴史思想一般に言えるものではないかもしれない。したがって、皇帝批判以外についても参照する必要がある。プロコピオスは、ベリザリオスのゴート戦争の失敗を以下のように評している。
このように、人間のことは人間の判断によらず、神の力と権威に左右されるのだが、人はこれをテュケーと呼ぶのが常である。しかし、この問題に関しては、各人が望むように考えさせればよい(『戦史』Ⅷ,1234)。
したがって、プロコピオスは、ゾシモス同様に、歴史に人間の力を認めないし、神の力の介在を見てとっている。その思想は「各人が望ように考えさせればよい」と結ぶことから、神意の不可知性を語っている。この意味で、歴史は人間の手によるものではない。「神の意のままに」歴史が動くのであり、それが合理的であろうとも非合理的であろうとも人間には知る由もないのである。
この点は、ゾシモスと類似点が多い。両者ともに、批判の対象となる人物を取り上げ、強く批判した上で、その原因を運命に求めている。示すことの重点を置いているのはわずかながらも未来志向的な側面を持っているからであろう。プロコピオスはゾシモスと比べ、キリスト教徒でありかつ秘密裏に『秘史』を書いたことからその傾向が強く現れている。プロコピオスの場合においても、歴史は運命によって、テュケーによって決定されているのだ。
第三章 アガティアス
一節 生涯と立場
アガティアスの著作は『歴史』に言及される。彼はこれまでの「歴史」とは違い、個人的な話や感想を著作の中に織り込んでいるからである(Ⅱ.15.6-9.)。アガティアスは、532年ごろに、小アジアのミリナに生まれ、家族揃ってコンスタンティノープルに移住した。アガティアス自身は、プロコピオス同様、異教徒に対して寛容な態度をとっているが、彼自身がキリスト教徒であったのかどうかは、議論が分かれている。アガティアスは、コンスタンティノープルに移住した際に、高等教育を受けたものの、「法の予備的研究」のため10代半ばにアレクサンドリアへ留学に行った。コンスタンティノープルに戻り、数年の教育を修了し、弁護士、詩人としてのキャリアをスタートさせた。彼の著作である『歴史』に当時の文人の名があることから、彼は社交的であり、彼らからさまざまなアドバイスを受けて、『歴史』を完成させたのだろう。アガティアスは、歴史家であるよりもまず詩人であった。つまり、彼は詩人のコミュニティに参加しており、彼の作品が同時代の詩集に掲載されている。彼が法廷で働いていたことと、それらのコミュニティに参加していた人々が宮廷の高官を勤めていたことから、彼は宮廷に近いポストについていたことが推測される。さらに10世紀に編纂された『ギリシア詞華集』に彼の作品があることから、詩人としてある程度の実力を備えながら、当代随一の教養を持つ友人関係を築いていたことが窺える。このような環境にいながら、詩に関して、彼は満足できるほどの名声をえるとこは難しいと考え始めたⅠ,序文, 11-13.。これが彼が『歴史』を書く動機の一つである。したがって、アガティアスは、これまでに登場した歴史家よりも個人的な動機が強く、歴史を書くことに名声を求めたといえよう。次に彼の執筆動機について仔細に見ていこう。
二節 『歴史』
まず、アガティアスは、詩ではなく歴史で名声を得ようと考えた。
この人は、私の利益を本当に考えてくれていて、特に私の評判を上げ、地位を向上させたいと願っていたので、飽きることなく私を励まし、希望を持たせてくれた。…しかも、多くの友人たちが 私の友人たちは、私の最初の試みに拍車をかけ、励まし、私に行動を促した。その中でも最も熱狂的な支持を得たのは、若いエウテキアヌスだった。…この人は、私の利益を本当に考え、特に私の名声を高め、地位を向上させたいと願っていたので、飽きることなく、私を励まし、希望を持たせてくれました(Ⅰ,序文,12)。
エウテキアヌスが、アガティアヌスの名声を考慮していたのは示唆的である。エウテキアヌスは、アガティアヌスが詩で名声を得られなかったことを知って、歴史と詩は同じようなものであり、類似した学問であるとアガティアスに歴史書を進めている 。けれども文学、修辞学、哲学を収めたアガティアスの『歴史』は、その場しのぎで書かれたものではなく、先人の構成を真似し、自分自身の問題意識を持っている。トゥキュディデスの構成の模倣に、プロコピオスへの賛辞、そしてホメロスやギリシャ悲劇の引用に始まる古典素養が十分に発揮された歴史叙述。その上で、個人的な話や知人の話をふんだんに取り入れる。彼の『歴史』の序文は、これまでの『歴史』に比して異様に長く、あからさまに自分の話をする。例えば、第二巻15章は丸々余談に充てられる。前章で触れられたべリュトスの地震 に際して、当時アガティアス自身がアレキサンドリアでその微震を感じたこと、そして当時の地震の原因の論争について述べ、「このような話はもう十分だ。さて、ここで一旦中断していた話に戻ろう。」と、本筋に戻る。
その中でアガティアスは、同時代の歴史家と自身を比して、自分の立場を表明する。「同時代の歴史家は、歴史叙述に正確さを持たず、その役割は有力者に媚び諂うことによって、自分自身の利益を確保することを目的としていた。しかし、これらの賛美は、利益にならず誤った行為である。」これに対しアガティアスは自身の立場を、為政者の顔色関係なく真実をすべて述べる、としている。
私は、結果がどうであれ、真実を私の最高の目的としなければならない。私はローマ世界と非ローマ世界の大部分において、現在に至るまで、現存する者のみならず、特にすでに世を去った者の記憶に残る業績をすべて述べ、重要なことは何一つ省かないことにする(Ⅰ,序文,20.)。
「業績をすべて述べる」作業が『歴史』である。ここで、『歴史』の作中で、アガティアス自身の知人が数多く登場することとプロコピオスの「歴史には真実がふさわしい」という言葉を踏まえれば、彼がプロコピオスから絶大な影響を受けていることがわかる。歴史の効用についてもアガティアスはプロコピオスと似たような見解を示している。歴史を政治学と比較してこのように述べる。
この問題を簡潔に言えば、歴史は政治学に決して劣らないというのが私の意見である、つまり、実際にはより恩恵的でないとしても、である。政治学は、…命令と指示、命令と警告を発する。歴史は、…、控えめに人の心に美徳を植え付ける。喜んで提示され、自発的に引き受けた意見は、より広く、より深く受け入れられるからである(Ⅰ,序文,4)。
アガティアスに置いて歴史とは道徳的な意味合いを備えている。これは、詩に関しても一貫する立場であった(Ⅱ.1.6-9.)。古典政治哲学を学んだ彼としては、有罪者は罰せられ、無実のものは除名されなければならないという正義の基本理念に基づき、歴史を書かなければならなかった。アガティアスが歴史を書く目的は、後世の人々に道徳的な知見を授けることであり、この根拠となるのはキリスト教の神である。これについては、次節で詳細に述べる。
しかし、先に触れたように彼が文学界における名声を気にしていた。従って、これらの序文も彼の詩のサークル内に向けた文章なのかもしれない。さらにその内容についても知人や同時代の歴史家について触れられていることから、彼の著作は、面白い読み物として書かれた(Ⅲ.8.2.)。一方で、このような性格をもってして、彼の歴史観を文学的野心に基づく粗野なものであると結論するのは早計である。先に、アガティアスがプロコピオスの影響を受けていると述べた。この意味で従来の「歴史」の中に位置づけられるべきである。つまり、アガティアス自身の動機は、これまでの歴史家よりもより個人的であり、その性格はよりあからさまであっても、伝統的な「歴史」ジャンルの枠内にあるのだ。
三節 道徳と神
では、彼の歴史思想はどのようなものであったのか。前節で、アガティアスの問題意識が個人的なものにとどまらず、真実と道徳の次元にあることを指摘した。『歴史』の記述にもその問題意識がはっきりと表れている。
例えば、信仰を持たないアラマンニ族の教会の破壊といった蛮行を取り上げ、それゆえにその報いを受け、「一人も以前の望みを叶えることができなかった。」と、ことの顛末を語り 一連の事件の原因を神に求めている(Ⅱ.1.6-9.)。他の箇所では、ペルシア戦争でのローマ軍敗北の理由が「卑劣な殺人に対する罰」(Ⅲ.8.2..)であるとし 、ペスト流行の原因の一つが「神の怒り」であり「人類が犯した罪に対する正当な報復である」と位置づけた上で、「私の理解を超えているだろう」(Ⅴ.10.6-7.)。
これらの記述からわかることは、アガティアスが因果を神の報いに見たことである。
アナトリウスの死体が運ばれて埋葬されると、群衆の中のある人々は、「彼は悪賢く、多くの人々の財産を奪ったので、彼の死は正当な罰である」と噂を流し始めた。…しかし、これらの問題に関して一般に受け入れられている考え方を妨げず、また実際に奨励することには多くの意味がある。なぜなら、恐ろしい死を迎えるという恐怖が、一部の悪人に対して抑止効果や節制効果をもたらす可能性があるからである(Ⅴ.4.2-6)。
従って、アガティアスは、キリスト教の神の罰に基づいた道徳化を歴史に求めていた。しかし、キリスト教の神によって、すべての事象が説明されたわけではない。先に取り上げたべリュタスの地震では多くの人々が亡くなったが、この事件に関してアガティアスは、自然科学や神話を取り上げて、地震の原因に関する議論を紹介するが、最後にはこれらの推測には意味がないと結論づける。
しかし、私の考えでは、彼らの結論は、人間が自分の理解を超えたものに対して推論を行うことが可能である限り、一定の説得力を欠くことはないものの、しかし、本当の真実からは非常に遠いものであった。実際、自分が見ることも影響を与えることもできない物事について、どうして正確な像を得ることができると思うだろうか。
ここで議論している内容は、地震の原因であって、真実と推論の遠さではない。地震の原因をこれまで同様に神に求めることをアガティアスはどうしても避けたかった。アガティアスとしては、神が罪のない人々の命を奪ったとしてしまうと、彼の理論に一貫性がなくなってしまうため、ここでは議論のまとをあえてずらしたのではないだろうか。ここに、彼の神の限界が認められる。つまり、歴史の因果を神に求めたというよりは、歴史で示したい道徳の根拠をキリスト教の神に求めたのである。Kaldellisは、アガティアスの究極の目的は、構成の人々の道徳化であり、キリスト教は彼の目的に合致した宗教であり、歴史の素材であったとまで述べる(kaldellis, 1999)。アガティアスは、多様な理由から歴史を書くきっかけにあったので、本論では、彼の道徳化を「究極の目的」とまでいうことはできない。しかし、アガティアスの歴史思想の根底にあったのは、神というよりも道徳であり、そう向かうように歴史は書かれたのだろう。
終章 ビザンツの歴史叙述における新しさ
一節 考察
ここまで、三人の歴史家を取り上げてきた。三人とも古典に精通しており、宮廷にある程度携わり、それぞれの立場が強く反映された歴史書を書いてきた。ゾシモスは異教的な立場からコンスタンティヌスに始まるローマ没落を『新しい歴史』として、プロコピオスは貴族主義的な立場から成り上がりのユスティニアヌス・テオドラによる暴政、内情を『秘史』として、アガティアスは文人として神の手による物語を『歴史』として書いた。
これら三人は生きている時代は、異なるものの多くの共通点から似通って歴史意識がある。すなわち人間の介入を許さない歴史観である。古典ギリシアに精通しているが歴史意識として継承したのはヘレニズム思想であった。運命を意味するギリシャ語は、アナンケ、モイラ、アイサといった神話に基づくものがあり、これが古代ギリシャ的な運命である。つまりギリシャ悲劇に現れるような「自分の運命には平然と耐えなければならぬ 」ということが問題となる。オイディプス王が運命を否認しつつも、それに雄々しくも散っていく姿が、賞賛されたのもそういった運命観に基づくものかもしれない。このような神話に基づく運命観念が古典では主流であった。古典では、神と運命が強く結びついていた。しかし、ヘレニズム期に入ると非合理的な性格をもってして、神話的運命が超克され、より哲学的なテュケーが権威をもち、ポリュビオスの歴史観に至る。つまり、人間と運命との緊張関係の中に歴史の動きを見ようというのである。ローマ帝政期には、テュケーが運命観として市民権を得るようになる。
そのようなポリュビオスの歴史を丹念に読み解いたゾシモスであっても、ヘレニムズ期に見られるような運命観は見られなかった。運命は人間にとって争うことのできない外的な力として、歴史を左右する。ゾシモスは、異端という立場からローマ衰亡をコンスタンティヌス帝をきっかけとしプロノイアという言葉で歴史を説明した。神の摂理が人間を左右する以上、人間にはどうすることもできないが、なんとかして没落のメカニズムを探ることが彼の課題であった。同様にプロコピオスもテュケーあるいは神という言葉で歴史を説明しようとしている。プロコピオスは、歴史の因果がテュケーあるいは神にあるとし、人間の力を排している。ユスティニアヌスを「人間の皮を被った悪魔」であるといったのは単なる比喩ではない。超人的な力が作用するのが歴史である。ここで着目したいのが、プロコピオスにとって、神とテュケーの関係性がはっきりしないことである。テュケーは神の一作用なのかそれとも対立するものなのか。彼の記述の中では、これらは並立してはいるが、関係では矛盾する箇所もある。一方で、アガティアスはプロコピオスのように悪魔やテュケーといった観念を退けたが、神という言葉で歴史を説明した。アガティアスの目的は、後世の人々の道徳化でありそのために不条理なテュケーという概念は彼の説明にそぐわなかったのだろう。キリスト教の神が彼の目的に的した概念であり、限界はあるものの歴史の因果を成している。この意味で、ビザンツの歴史書には、異教とキリスト教が混在している。
二節 結論
さまざまな立場の歴史家にも共通して、決定論—不可知論の立場をとっていることがわかる。つまり、歴史に人間が介入することはなく、超越的な存在が全てを決定している。しかし、その意図はあずかり知ることはない。人間が因果に打ちのめされてしまったようである。したがって、6世紀には、人間が外的な力に打ち倒された歴史観の存在が認められる。古代の歴史家は、神話的運命を人間との緊張関係に置いた上で、歴史を説明した。トゥキュディデスの筆にあっても、ミュートスが語られているのである。彼らを模範とした、ビザンツの歴史家たちは、哲学的な運命思想に基づいて、厭世的な世界観を築き上げた。この意味で、ビザンツの歴史思想は、彼らの先代と比して特異である。
またヘレニズム的な運命観を発展させたビザンツの歴史家は、常にキリスト教と対峙してきた。古典に造詣が深い彼らは、異教的な世界を常に覗いていたから、異教文化に関して寛容であったが、キリスト教が勢力を拡大する中で、古典だけでは無視できない存在となっている。ゾシモスは、異教的な立場からコンスタンティヌスを強く批判し、プロコピオスは、神と運命を混同して用い、アガティアスは神に道徳的根拠を求めた。この限りで、異教徒
とキリスト教が混同する独特な歴史観が認められる。ゾシモスを古典より、アガティアスをキリスト教より、プロコピオスをその中間に位置付けることができるだろう。このように考えると、この時代は、古典とキリスト教の概念が、運命と神という形で拮抗していと言える。歴史書の見られる歴史観は、このように類型化できるのではないだろうか。
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