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映画感想『キャッツ』

『CATS』2020年
トム・フーパー 監督
きっかけ:怖いもの見たさ
見た場所:TOHOシネマズ新宿( IMAXレーザー)

不気味な「ヒトネコ」よりもショックだったこと

日本公開前から「気持ち悪い」「グロテスク」と、不穏な海外評が目について気になっていた。

私はミュージカル版『CATS』を数年おきにロンドンで4〜5回鑑賞しており、ロンドンキャスト版のCDは、20年以上聞き込んでいる程度のファンである。
嫌な予感だらけの中、あえてIMAXで挑んだのは、大好きな『CATS』というコンテンツへのリスペクトだった(ちなみに字幕版)。

実際のところ、悪名高き「人でも猫でもない生物」はそこまで気にならなかった。確かに頭の大きさと顔の比率は不自然だったし、毛皮や髭はリアルなCGなのに手足の指先だけ人間なのは変だったけどね。

しかし、もっと重大なことは、舞台版を鑑賞するときにいつも「来るぞ来るぞ」と楽しみに待ち構えていた演出が、映画ではことごとく違うモノになっていたことだ。

変えないでほしい部分が独特の奇妙さでアレンジされており、変えてもよかったんじゃという部分がCGによる過剰なリアリティで再現されすぎている。
列挙したところで面白くもないのでいちいち書かないけれど、誇張抜きで2分おきに「え!それそうなっちゃうの!?」という戸惑いが起きるほどだった。

あげく、音楽はほぼ舞台版と同じ内容・同じ曲順だったので、鑑賞途中から「映画を観ているのに舞台版『CATS』を思い出して脳内で再演する」という妙な行動に走ってしまった。

舞台版が好きな人はがっかりするし、舞台版未体験の人にはビジュアルの奇妙さが邪魔をしてアンドリュー・ロイド・ウェバーの素晴らしい音楽が耳に入ってこない。この映画、いったい誰が嬉しい映画なんだろう……?

型があっての型やぶり

1981年のロンドン初演以来、舞台版は何十年もロングラン上演されており、もはや「ミュージカルの古典」と言える作品である。

歌舞伎同様、役者やスタッフの顔ぶれが変わっても、あらゆる部分に「型」となって受け継がれていった要素がてんこ盛りなのだ。

まさに「型があるから型破り。型が無ければ、それは形無し」で、モトがあるものを別の形にするためには、モトを理解することから始めるのが大切だ。大モトのコンテンツを理解せずに表層だけなぞるのは、愛とリスペクトの無い二次創作と申せましょう。

誤解してほしくないのは、私の中で新しい演出を否定するつもりはまったく無い。舞台版も初演のまま続いているのではなく、時代や上演する国によっていろんな部分が変わっているので、映画版も同じように独自の色や味を混ぜていくのが自然だろう。

それなのに、なぜ「忘れてはいけない、映画版キャッツはキャッツにあらず」になってしまったかというと、やはりそこに愛とリスペクトが無かったことが原因じゃないのかな……。
ファンに媚びろとは言わないが、愛情を胸に映画館に来ているファンに「君たちの愛を知っているよ」と目配せしてほしかった。
※この感じ、ちょっと前にもあった気がする。そうだ、『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』だ。

だけど、良かったこともある

長々と書いてしまったけれど、悪いことばかりでもない。
良いところもちゃんとあるので、最後に書いておこう。

20年前ぐらいのロンドンの街並みが再現されていた。
映画館の大音量でロイド・ウェバーの名曲の数々を聴けたのは嬉しかった。
始まりの序曲は、舞台版でおなじみの演出がカットされていてもワクワクできるものだった。
名優たちは猫の衣装を着ていても素晴らしい存在感だった。
CDで英語歌詞をヒアリングできていない部分に日本語字幕が付くことで、「こう言っていたのか!」とたくさん発見することができた。

個人的には、己のコンテンツに対する原理主義な姿勢を再認識することで、「自分の中で何がOKで何がNGか」を知ることができたのが大きい。
映画の最後に歌われる「猫への正しい礼儀」のように、コンテンツには礼儀を持って接したい。


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