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『戯曲:スタァライト』解説

※こちらは、2022年に文学フリマで頒布した自作同人誌『戯曲:スタァライト』(100円)のあとがきに書いた解説になります。
作品本文は、『THE STARLIGHT GATHERER GATHERER 戯曲「スタァライト」アンソロジー』に収録しております他、pixivでも全文公開中です。
「『戯曲:スタァライト』」/「王生らてぃ」のシリーズ [pixiv]

はじめに

『戯曲:スタァライト』をお手に取っていただきありがとうございます。王生いくるみらてぃです。
 この戯曲は、ブシロード原作のメディアミックスプロジェクト『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』、その作品中に名前だけが登場する架空の戯曲『スタァライト』を、作品中で明かされている断片的な情報をもとに、独自の解釈を加えて一本の脚本として作り上げた二次創作です。
 オリジナル作品ではありません。
 また、あくまで『スタァライト』を元にして書いた脚本であり、作中の戯曲を「再現」することを目的とした作品ではありません。

 わたしが『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』に出会ったのは二〇二一年の五月。劇場版の公開を控え、YouTubeでアニメ全十二話が無料公開されていたのを知人にすすめられたのがきっかけでした。そして、流されるまま『劇ス』を浴び……衝撃的な作品でしたね。そこからどハマりです。推しキャラはまひるとクロディーヌ。
 さて、非常に多様なモチーフを持ち、突飛な演出と爆発的な感情を、映像と音楽に乗せてフルスイングで叩きつけてくるこの作品を考察しようとする方は多いですが、わたしはその中でも、もっとも根源的かもしれないテーマに注目しました。それは同時に、脚本書きとしてのサガでもあったのかもしれません。
「結局、『スタァライト』ってどんな話なんですの?」

 作中通してモチーフとして用いられ、台詞やシーンが回想として挿入され、愛城華恋、神楽ひかり、大場ななという三大主人公の行動原理にもなっているこの架空の戯曲。あらすじや登場人物は明らかになっているのに、その全体像が明かされることはない。
 気になる……読みたい……でもどこにもない……だったら作るしかない! そんな気持ちで、この作品に取り掛かり始めました。ですが、これがとんでもなく難しく、険しい道のりで……幾度の紆余曲折を経て、かなり歪な形ではありますが、なんとか形にできました。
 ここでは、わたしが執筆する上でヒントにしたこと、発見、そして主にアニメなどで明かされている点と食い違う部分を解説していきます。
 以下、架空の戯曲を指す場合は『スタァライト』、アニメや映画といった公式の映像作品を指す場合は「レヴュースタァライト」、わたしの書いた脚本を指す場合は『戯曲:スタァライト』と表記します。

(以下、アニメや劇場版のネタバレが含まれます)
 

『スタァライト』のあらすじ

 まずは、なんとなくみんなで分かった気になっている、『スタァライト』のあらすじを見つめ直し、全体像を把握するところから。おおむね以下の通りです。

「これは、星の光に導かれる、女神たちの物語。」
 とある小さな村に伝わる夏の星祭りの日、十五歳の少女、クレールとフローラが出会う。お互いにずっと昔から一緒にいたかのような惹かれ合うものを感じたふたりは、来年の星祭りの日にまた再会することを約束する。
 ところが一年後、約束通りに再会したふたりだったが、クレールは去年の星祭りの帰り道で事故に遭い、フローラのことを忘れてしまっていた。フローラは歌を頼りに「星摘みの塔の頂上にある星を摘めば、クレールの記憶を取り戻せるかもしれない」といい、クレールと共に星摘みの塔を目指す。
 塔にたどり着いたふたりの前に、五百年前から塔の中に幽閉されていた女神たちが立ちはだかる。女神たちの黒い感情にふたりは幾度も引き裂かれそうになりながらも、頂上にたどり着き、星を掴もうと手を伸ばす。
 だがその瞬間、フローラは星の光に目を焼かれてしまい、塔から落ちる。クレールは新たな罪人として塔に幽閉されることとなる。こうしてふたりは永遠に離れ離れとなり、頭上では永遠に星々が瞬き続けるのだった。
「『スタァライト』。これは遠い星の、ずっと昔の、はるか未来のお話……」

 …………、
 こうして改めて文字に起こすと、このストーリー、意味不明なんですよね。この時点で思い浮かぶであろう疑問点を列挙します。

  • 夏の星祭りとは?

  • クレールとフローラはなぜ一度別れ、一年間も離れ離れになるのか?

  • 「星摘みの塔」とはなにか? どこにあるのか? 何のために建てられたのか?

  • なぜ、星摘みの塔の星を摘めばクレールの記憶が取り戻せるかもしれないのか?

  • 幽閉されていた女神たちとは?

  • なぜ女神たちはフローラとクレールを引き裂こうとするのか?

  • 「星の光に目を焼かれる」とは?

  • なぜクレールは目を焼かれなかったのか?

 などなど。
 これは「レヴュースタァライト」の作中で明かされているだけの情報なので、描かれていないシーンなどでこれを補完する要素があるのかもしれませんが、ともかくこの疑問点を潰さないことには先に進めませんでした。
 このタイミングでまず大幅につまずき、「とりあえず書き始めてから考えよう」ということすらできない状態が続いたのですが、あるときピンと閃いてしまったのです。

 小さな村。
 夏の祭り。
 星を目指し、ふたりで旅立つ。
 一方が「落ち」、離れ離れになる。

 これって……まるで『銀河鉄道の夜』とそっくりじゃないですか?
 運命の出会いをしたクレールとフローラ。クレールの失った記憶を求め、塔をのぼってゆく。最後にフローラは塔から落ち、クレールと離れ離れになる。
 村の学校で同級のジョバンニとカムパネルラ。「ほんとうのさいわい」を探して銀河鉄道に乗り込み旅をする。最後にカムパネルラはザネリを助けるために川に落ち、ジョバンニと離れ離れになる。
 そして「星」のモチーフ。
 また少しこじつけですが、高校演劇をテーマにした映画『幕が上がる』(2015年)。主人公たちが演目として選んだのが、まさにこの『銀河鉄道の夜』です。それって、「レヴュースタァライト」の作中で99期生の課題として課せられる『スタァライト』と対応しているとも思えませんか?
 ここまで来ると、単なる偶然とは思えませんでした。ここでわたしの作品への解釈、そして執筆のスタンスが決定しました。「『スタァライト』は『銀河鉄道の夜』である」。丸パクリといいたいのではない、「『ウエスト・サイド物語』は『ロミオとジュリエット』である」というようなレベル。間違いなく関連性があるはず。
 この仮定をもとにして考察をしていきます。

夏の星祭り

 まずこれは何なんだという話ですが、これは『銀河鉄道の夜』との対応構造、そして「願いが叶う」という点から七夕の祭りであると考えられます。もちろん時期も国も明言されていないので、それに準ずるなにか、ということにはなりますが。
 ここで重要なのは「天の川」というモチーフを利用することができるということです。これは「星摘みの塔」のところで解説します。
 そしてお祭りには出し物があって然るべき。盆踊りしかり山車しかり。『銀河鉄道の夜』では、烏瓜の灯籠を川に流します。
 ここでは小さな村ということもあって、「聖劇」というモチーフを採用させました。つまり劇中劇です。村の若い娘さんたちがおめかしして、村の広場にどでかい舞台をこしらえて、おとぎ話を演じるのです。七夕の時期に子どもたちが織姫と彦星のお遊戯をするみたいなものです。
 開演直後、観客はまずこの劇中劇をいきなり見せられます。これによって、物語の背景を説明しつつ、『戯曲:スタァライト』がどういう話なのか、というストーリーラインを提示することができます。
 そして「星摘みの塔」や「女神」といったファンタジックな存在が、作品中でどういう風に扱われているのか、ということも説明させます。神様が当たり前にいる世界ではなく、星摘みの塔も実在はしない、あくまでおとぎ話として村に伝わっているんだぞ、と。第一幕でいきなり終演後の舞台裏から始まるのは、その事実をより印象づけるためです。
 この前振りがあるからこそ、実際にクレールとフローラが「星摘みの塔」で「女神」に出会うことが、よりドラマチックになるのです。

クレールとフローラが一度別れる理由

 小さな村の祭で出会ったクレールとフローラ。ですが、「来年もまたここで会おう」と約束をして一度別れます。小さな村で共に暮らしているなら、今日は楽しかったね、よかったら明日もまた会いましょう、となってもおかしくない。また、ふたりが同じ村で暮らしているのなら、クレールの記憶が無くなったことをフローラが知らないまま一年間も過ごしているのは不自然です。「小さな」村なら、なおさら。
 つまりこうです。クレールとフローラ、どちらか一方は村の外からやってきて、すぐに帰り、簡単には会いに来られない事情がある。そして、クレールが外に暮らしているのなら、記憶を失うほどの事故に遭ってもなお一年後に村にやってきて、再会したフローラに「あなたは誰?」と尋ねるのは、不自然です。
 よって、クレールはもともと村で暮らしていた娘、フローラは村の外から遊びにきた娘、ということで筋が通ります。
 一年間ずっと会えないまま、遠路はるばる村へやってきて、ようやく再会したのに、その相手は記憶を無くしてしまっていた。こうした方がよりフローラが絶望してくれそうだし、この説を採用しました。
 ではフローラはどこから来た何者なのか? ということですが、これについては「レヴュースタァライト」作中にヒントがあります。それは、華恋とひかりが小さい頃に交換した髪留めです。
 アニメ最終話を見て分かる通り、華恋はフローラで、ひかりはクレールです。ひかりの髪留めはの形。そして華恋の髪留めは王冠の形です。これ、ちょっと変ですよね? 花の形でも星の形でもなく、王冠。当たり前のように「レヴュースタァライト」のアイコンとしてあしらわれていますが、星と対になるデザインというにはちょっと無理があります。ですが、小さい頃から『スタァライト』大好きなふたりがそれぞれ選んだデザインなら、この形にも何か意味があるはずです。
 つまりフローラは、王冠がモチーフとされるような、王族ないし貴族の娘、やんごとなき身分のお嬢様なのではないかと考えられます。
 十五歳の女性といえば、中世では既に結婚させられていてもおかしくないころ。フローラもそうだったかもしれません。自由のない生活に嫌気がさして、こっそりとお城を抜け出し、賑やかな夏のお祭りで身分を隠して、同い年の友人を作る。だけどそれがバレて、家の者が連れ戻しにやってきて、無理矢理に引き離される。すべて無理なくおさまります。そう考えれば、「来年もまたここで会おう」という約束は、ともすれば二度と叶えられないかもしれませんよね。そう思えばあの別れのシーンは、とても切ないシーンになってしまうと思います。
 そして、クレールとフローラがお互いをお互いと認識できるようなアイテムとして、このふたりにも髪飾りをつけさせ、作中で実際にこれを交換し、約束のしるしとします。もしかしたら小さい頃に華恋とひかりが見た『スタァライト』では、そういう場面があったのかもしれない。だから「運命の舞台のチケット」に髪飾りを選んだのかも……という妄想も捗ります。


「星摘みの塔」と女神たち

 戯曲『スタァライト』はもちろん、「レヴュースタァライト」のコンテンツ全体を通して、「」は重要なモチーフとして扱われています。この戯曲を書く上でも避けては通れませんでした。
星摘みの塔は、誰が、いつ、何のために作ったものなのか?
 塔とは細く長く不安定で、居住のための建物としては非合理的な形状をしています。必ず、何かの目的があって建てられるはずです。
 現在では女神たちが幽閉されているわけですが、女神たちが自分たちを幽閉するための牢獄としてわざわざ作って、その中に入ったとは考えにくいです。それなら「塔」にする必要がない。目立つし、興味をそそられた何者かが訪れるかもしれない。それは女神たちの本意ではないでしょう。つまり、先に「星摘みの塔」があって、女神たちはあとからそこに入った。先に塔を作ったのは別の誰かなのです。

「塔」がモチーフのエピソードと言えば、多くの方が旧約聖書の「バベルの塔」を思い浮かべるでしょう。
人々は結託して、天に届くほど高い塔を作り始めた。神はそれを見ると天から「降って行って」、それまで同じ言葉で話していた人々の言葉をめちゃくちゃにして、互いに意思疎通ができないようにした、という話です。
 バベルの塔は「石のかわりにれんがを、しっくいのかわりにアスファルトを」使って作られた、とあります。つまり人間の技術革新のことですね。ただ作るのではなく、科学と計算を駆使して、強固なものを作ろうとしたのです。そのせいかわかりませんが、塔を作っていた人々は各地に散らばることになりましたが、塔そのものを神が壊したという記述は実は創世記にはありません。

 オープニングアクトとして書いた「星摘みの塔」の神話は、この話をモデルにしました。
 美しい天の星を掴むために、人間たちが塔を作った。怒った天の住人は女神を遣わせて、塔から人間を追い払った。しかし、人間たちの技術の結晶である塔は、神をもってしてもとうとう壊すことができず、女神たちは仕方なくその中に門番としてとどまっていた。
 そのうち人間たちが恐れをなして塔に近付かなくなったころ、フローラというひとりの少女が星を掴みにやってきた。女神たちはやはり追い返そうとしたが、自分のためではなく他人のための星をつかもうと、必死に塔の頂上を目指すフローラの魂の美しさに、女神たちは心を打たれ、彼女を頂上へと導いた。
 女神たちは与えられた役目に叛き、フローラに星を摘ませると、その魂を天で永遠に輝き続ける星に変えた。
 これが女神たちの「罪」であり、「星」=フローラを守ろうとする理由であり、塔を破壊できずに中にとどまっているゆえんなのです。壊すことのできない塔は、そのまま牢獄へと姿を変えた。女神たちは今でも、天の頂にきらめく赤い星=フローラのことが大好きだけど、五百年もの間その星を見ることはできなかった。それが女神たちに与えられた罰なのです。
 ところが、五百年ぶりに輝いた赤い星に導かれ、ふたりの人間の娘が塔の扉を開きます。それこそフローラとクレールです。

 わたしは脚本にするにあたって、星摘みの塔を「天の星に届くほど高く」「『たどり着く』には困難であり」「けれどもその存在は広く知られている」という要素と、「一年に一度の夏の星祭り」という場面設定、『銀河鉄道の夜』との関連性も含めて、地平線から真っ直ぐに天に伸びる天の川であると解釈しました。天の川は誰が見ても明らかに大きいし、天の星に届くほど……というか星そのものだし、それでいてたどり着くのは困難なものです。
 また、天の川といえば七夕、短冊に願い事を書くという風習がありますね。ここで「願いを叶える」という要素にも、少しだけ説得力を持たせることができます。

 ですが、ただの人間が天の川を目指したって、いくら歩いてもたどり着くわけがありません。でもクレールとフローラはたどり着いた。なぜか? もちろん「ただの人間」ではないからです。
 天へも自由に行くことができる。つまり、この場面の彼女たちは魂だけの存在なのだと思いました。クレールは記憶を失うほどの大怪我を負っているわけですから、昏睡状態のまま、死んだように眠り続けているとしても不思議ではありません。フローラの方も、前述の通りお城での生活にがんじがらめにされて、過度なストレスを溜め込んだ末に自殺を選ぶというのは、突飛ではありますが、あり得ない話ではありません。
 これで「塔」「願い」「女神」の三つの疑問を同時に解消できました。


女神たちの思惑

 塔の中に入ってきたクレールとフローラの前に、六人の女神が立ちはだかります。ここで気になるのは、女神たちは「黒い感情」をもってふたりの絆を引き裂こうとはしますが、直接手を出そうとはしていないことです。剣や弓矢などの武器を持っていて、その気になれば小娘ふたりくらい簡単に傷つけて追い払えるはずですし、クレールとフローラは丸腰で武器を持った相手と戦えるほど強いとは思えない。そもそも塔の頂上に辿り着かせないためには、武器で襲い掛かるなり突き落とすなりで、殺してしまうのが手っ取り早いはずです。でもそうしない。あくまで「黒い感情」をぶつけることで、ふたりに自発的に諦めてもらおうとしているのです。
 これに関してのヒントはアニメ版第九話の、ひかりが持っていた『スタァライト』の英語の戯曲本にあります。冒頭のページを開くと、小さいですが、こんなことが書いてあります。

The Star remembers it all.
(星はすべてを知っている)

When Fury was Passion.(激昂は情熱)
When Curse was Faith.(呪縛は信頼)
When Escape was Bravery.(逃避は勇敢さ)
When Jealousy was Affection.(嫉妬は親愛)
When Despair was Hope.(絶望は希望)
When Arrogance was Pride.(傲慢は誇り)

The Star remembers it all, together with its twinkles.
(星は、ともに輝くすべてを覚えている)
And it shall be bestowed upon you, the Star which you have linger for –
(お持ちなさい、あなたの望んだその星を)

訳は私が適当に書きました

 ここには女神たちの持つ「黒い感情」、すなわち激昂・傲慢・呪縛・逃避・嫉妬・絶望の六つと、それと対になるようなポジティブな感情が並んでいます。女神たちはそれぞれネガティブな感情を、クレールとフローラにぶつけてきます。でも、ふたりは最後には塔の頂上にいくわけですから、その感情を乗り越えてくるわけですよね。
 これこそが女神たちの狙いなのです。つまり、彼女たちはクレールとフローラの魂を見定めている。試練としてあえて立ちはだかっているのです。自分たちの「黒い感情」を乗り越えたポジティブな感情、魂のキラめきを持つのか否か。それを乗り越えた純粋で無垢な願いを持つものこそが、天の星を掴む資格がある、ということなのではないでしょうか。
 クレールとフローラは、この女神たちの試練に屈しそうになりますが、その度に互いを思う強い絆の力で「黒い感情」をはねのけます。どちらか片方では絶対に無理です。
 クレールは言わずもがな、感情云々の前に記憶そのものがあやふやです。前後不覚な状態で剥き出しの悪感情をぶつけられたら、呆気なく屈してしまうでしょう。
 フローラは逆です。記憶を無くしたという娘の前に急に現れ、何で忘れてしまったのひどいわと泣いてみせ、記憶を取り戻せるかもしれないというあやふやな情報だけで塔に挑んでいます。わがままなんてレベルじゃない。クレールは完全に被害者です。そんながむしゃらな状態で女神たちに悪感情をぶつけられたら、なおさらやっきになるか、あるいは強く反発するか。どっちにしても、うまくいくような雰囲気ではありません。
 それでも、共に歌った「歌」と、交わした「約束」だけは、おぼろげながらもふたりを強固に結びつけている。ここだけ急にご都合主義ですが、だからこそこのふたりは魅力的なのでしょう。自分のためではなく、相手のために自分のすべてをささげて、共に信じあい、助けあう。それこそが、女神たちが真に見たかった美しい魂のキラめきなのです。


フローラの目を焼いた「星の光」

 女神たちとの紆余曲折もありつつ、クレールとフローラは塔の頂上にたどり着き、星に手を伸ばしますが、フローラは目を焼かれてクレールの姿を見失い、塔の頂上から落ちてしまいます。ここだけ急にファンタジーです。
 太陽レベルの「星」なら、肉眼で見れば失明することもあり得るでしょうが、そうだとしてもクレールだけが無事なことの説明にはなりません。なぜフローラだけが目を焼かれなければならなかったのでしょうか。
 ひとつの解釈としては「クレールは目を閉じていた」……つまり、クレールは最初から星を掴む気などなかったので、星の光を見ずに済んだ、という説。最後の最後でフローラのことを信用できなくなってしまったのかもしれませんし、まぶしさで咄嗟に目を逸らしてしまったのかもしれません。あるいは目前に迫った「星」を、フローラに譲ってあげようと思ったのかも。いずれにしても面白い解釈ですが、共通する点があります。それはこの場合だと、フローラからすれば、クレールにある意味「裏切られて」、ひとり塔から落ちる羽目になるということです。ちょっと救いのない話ですよね。それに、フローラもクレールも損しかしていません。『スタァライト』は悲劇ですが、ほんとうに救いのない話ではちょっとかわいそうです。
 なのでもうひとつの解釈をしました。『スタァライト』で描かれているこの描写は、何かしらの比喩的な表現であるという解釈です。「星の光に目を焼かれた」というのは、何かしらの要因で視力がなくなった、あるいは何かが急に見えなくなった、ということです。
 さて、高い高い塔の頂上でクレールとフローラに見えているものは何でしょうか。ひとつは満天の星、もうひとつはお互いの姿です。フローラは視力を失ったわけではなく、急にクレールの姿が見えなくなり、それを戯曲では「星の光に目を焼かれ」たと表現しているのではないか。
 じゃあなんでフローラだけがそうなるんだと。クレールからもフローラの姿が見えなくなって、お互いにお互いを見失うのではなく、フローラだけが「クレールはどこ?」と悲嘆するのはなぜか?

 ここでわたしは、劇中劇の構造を利用することにしました。すなわちオープニングアクトで村娘たちが演じた、星摘みの少女の聖劇です。
 クレールが、天に輝く星に変えられた少女フローラの役を演じることで、「クレールはフローラでもある」という要素を作り、最後に塔から落ちるのをクレールへと改変しました。そしてこの劇を、王女フローラにも見せることで、ふたりが仲良くなるきっかけも作りました。わたしもフローラだけど、あなたもフローラなのね、しかも同い年なんてすごい偶然ね、ということです。「へぇ、アンタもナナっていうんだ」ってことです。
 つまり、『スタァライト』の中ではフローラが落ちたことになっているけど、実はそれは翻訳と翻案の繰り返しの中でいつの間にか逆になってしまった末のバージョンであって……実は落ちたのは「フローラを演じていたクレール」なんじゃないか? という、こじつけ。実際こういうことは珍しくありませんし、『スタァライト』はかなり古い戯曲だとアニメ作中でも言及があるので、不自然なことではない……ないよね?
 この流れが決まったことで、星摘みの少女の神話、女神たちとフローラの関係も定まり、物語の下敷きがより強固なものとなりました。また、王女フローラが、かつての星摘みの少女フローラのように、ふたたび塔をのぼり星を目指すという、「神話の再現」という構造も取り込むことができました。

 そして作中で、フローラはお城の窓から身を投げて自殺していた、という描写を作ることで、王女フローラも塔から落ちていたのだ、という事実を一応作っておきました。もともとお城を抜け出して星祭りにひとりでやってくるような娘です。お城での窮屈な生活、家柄で決められる人生、そんな中でクレールと過ごしたまぶしすぎる時間は、フローラにその後の長い人生を絶望させるには充分すぎる輝きだったはず。
 こうすればフローラは魂だけの存在になって星摘みの塔=天の川にも行けるし、罪人として塔に残ることにも言い訳が立ちます。そして、フローラには帰るべき場所がないので、多少強引にでも塔の上へと進もうとする意志を持たせることができます。もう死んでいるから死ぬのも怖くない。諦めたらクレールには記憶を取り戻してもらえない。だからフローラは前に進むしかないのです。時にはクレールの気持ちも無視してまで、クレールのためにと驀進させることができます。

 そして、星を目前にしたクレールがこの事実を知ることで、それまでフローラの意志に流されるままに塔を駆け上ってきたクレールにも「フローラを蘇らせる」という明確な願いが生まれます。ここまでのクレールは、記憶を失っているので、フローラのことを信じてついていくということしかできませんでしたが、ここに来てついに自分の目的=「星」を見つけたのです。ですが、フローラは既に地上での生活に絶望しているので、生き返ることを望みません。クレールの失われた記憶、ふたりで過ごした十五歳の夏の星祭りの記憶を取り戻すことこそが、フローラにとっては蘇ることなのです。
 お互いに目指すものは同じはずなのに、その過程も結果もまったくすれ違ってしまっている。どちらかの願いが叶っても、もう一方の願いは決して叶わないのです。
 果たして、星を掴んだふたり……
 フローラの願いは叶いました。クレールは無事に記憶を取り戻し、ふたりで過ごした星祭りのことを思い出しました。
 一方、クレールの願いは叶いません。なぜならフローラには地上に帰るべき体がないので、蘇ることができないからです。
 そして失くしたものを取り戻したことで、ずっと眠っていたクレールの体は覚醒しはじめます。つまり生き返り始めた。だから、死者の魂であるフローラの姿がだんだん見えなくなっていくのです。
 地上へ帰ることを拒むクレールに、フローラは自分の思い出の品として交換した髪飾りを返し、クレールを地上へと突き落とします。この髪飾りこそが、新たなフローラの「体」、魂が宿るものなのです。
 アニメ版で何度も繰り返されたシーンですが、クレールは物語の最後に、「ふたりの夢は、叶わないのよ」と嘆きます。ですが、それはクレール=生者の目線での話。フローラ=死者の目線では、意外とハッピーエンドなのです。死んでいる人間は、その喜びを生者と共有することはできませんが。
 地上にひとり落とされたクレールは、フローラとの思い出と、彼女から返してもらった髪飾りを手に、「来年もまたここで会おう」と、薄れゆく夜空に「約束」をします。クレールは決して人生に絶望せず、フローラの思い出も背負って生きていくことを決意するのです。ほんとうに強い。

 長くなりましたが、これこそ「星の光に目を焼かれ、塔から落ちたフローラ」の真相です(※諸説あり)。
 こじつけにこじつけを重ねた結果ではありますが、いちおう物語に筋を通すことはできましたし、作中に盛り込んだ設定や小道具も無理なく使うことができました。何より、永遠に離れ離れになる悲劇でありつつ、少しだけ希望を残したラストになったのではないかと思います。
 アニメ版の「レヴュースタァライト」第十二話で、華恋とひかりは「クレールとフローラは再会する」という完全なハッピーエンドに物語を再構築しています。一方、戯曲として語られる『スタァライト』は、フローラにもクレールにも救いのない完全なバッドエンド。悲劇は悲劇でもあまりに救いがありません。
『オイディプス王』をはじめとしたギリシャ悲劇の世界では、救いのないバッドエンドには何かしらの前振りがあります。そうなっても仕方ない何かをやらかしてしまっているからバチが当たったんだ、ということです。知らず知らずのうちに親を殺してしまっていたりとか、知らず知らずのうちに母親と結婚してしまったりとか。それこそが「カタルシス」なわけですが。
 たぶん古いバージョンの『スタァライト』も最初はそういう話だったのかもしれませんが、それではちょっと堅苦しいので、わたしは、ほんのりマイルドでちょっぴりビターな、「ハッピーエンドではないけど、希望はある」という着地点を目指しました。それは、おおむね達成できたのではないかと。

 …………、
 さて、『スタァライト』の疑問点と、それをどう解消したか、その流れで『戯曲:スタァライト』の解説もしてきました。
 もともとはアニメの中の『スタァライト』を完全再現してやろう! と意気込んでいたのですが、考えれば考えるほどこんがらがってしまいます。無限の解釈がありえるし、どれも面白そうだし、だけど実際に作品として話に筋を通そうとすると難しかったり……
 そしてラストのフローラとクレールの役回りの交換だったりと、時に大胆な改変をしたり、あるいは既出の描写と矛盾する展開を作らなくてはならなかったりと、かなり苦悩しながら書きましたが、結果として出来上がったものはけっこういい話だと思ってます。
 これがわたしのスタァライトです。
 もちろんこれが「正解」というつもりはありません。あくまでひとつの解釈です。無限の解釈があるということは、『スタァライト』にも無限のバージョンが存在し得ます。わたしの試みを嚆矢として、たくさんのバージョンが形になり、読み合わせとかできたら面白そうですよね。だからみんなも戯曲を書いてください。


   

自作について細かい解説

 さて、ここまでは脚本全体のストーリーに関わる考察や、アニメ等で語られる『スタァライト』と明確に異なる点などについて語ってきました。ここからは、物語の大筋にはあまり関わらない、細かいポイントを解説していきます。


表紙の塔について


適当に作った表紙。マジでササッと作った記憶

 表紙はIllustratorで図形を組み合わせて作りました。この謎のイラストは「天気柱」をモチーフにしています。
 天気柱とは主に東北地方の墓地の入り口に設置されている謎のオブジェです。高さ一・五メートルくらいの木の柱の頭の方に金属の輪っかが取り付けられていて、これがカラカラと音を立てて回ります。願い事を念じながらこれを回すと願いが叶うのだとか。わたしの母は岩手県北の出身ですが、その近くの墓地の入り口にも設置されています。
 一説によると、『銀河鉄道の夜』でジョバンニが銀河鉄道に乗る前に向かう「天気輪てんきりんの柱」というのが、この天気柱のことを指しているのではないかとも言われています。先述の通り、戯曲『スタァライト』は『銀河鉄道の夜』をモチーフにしていると思われる要素がたくさんあり、「塔」のモチーフはこの「柱」に対応しているのかもしれません。
 あとはまあ、天気輪の柱……天気輪……てんきりん……天キリン……なんちゃって。「天気輪の柱」というのは宮沢賢治の造語らしく、何を表しているのかさまざまな解釈があるそうですがそれはともかく。わりと真面目に、「レヴュースタァライト」でキリンがモチーフになっているのは、ここからネタを引っ張っている可能性もあります。
 第一幕でクレールが丘の上に行くのは、そこは天気柱が立っている場所、つまり墓所へと向かったということです。あの丘の上はクレールにとっては、母親と過ごした思い出の場所であり、それゆえに亡くなった母をそこに葬ったのではないかという含みを持たせています。そして、その場所をフローラとの待ち合わせ場所にすることで、この柱を道標に星摘みの塔へと至る、という形にできます。塔はすなわち、天に伸びる柱ですから。


村娘たちの名前について

 実際に『スタァライト』を演じるとしたとき、名前付きの役である塔の中の女神たちの出番は後半からしかありません。せっかく大きく名前が出ているのに出番が少ないのは少しかわいそうなので、女神たちをクレールの暮らす村の友人たちという形で「兼ね役」として登場させています。
 作中でクレール以外の娘たちが名前で呼ばれることはありませんが、脚本の中では見分けがつきやすいように便宜上の名前をつけています。名前の元ネタは以下の通り。

ステラ………ラテン語で「星」を意味するstellaから。「見純那」に対応。

フルート……英語で「果実」を意味するfruitから。「大場なな」に対応。

リーベ………ドイツ語で「愛」を意味するliebeから。「城華恋」に対応。

トロップ……ドイツ語で「しずく、露」を意味するtropfenから。「崎まひる」に対応。

サリー………ヤナギ属を意味するSalixから。「花香子」に対応。

シエル………フランス語で「空」を意味するcielから。隕石=空から落ちてきた石を本尊として祀ったという「石動神社」から名前をとり、「石動双葉」に対応。

 というように、「レヴュースタァライト」の作中で描かれている女神たちを演じたキャラクターにそれぞれ対応させた名前をつけています。シエルだけ少しこじつけですが。語感が出来るだけダブらないように、また、国籍がバラけるように、出来るだけいろんな言語から名前をとりました。ただし作品の情報量が多くなりすぎないように、村娘たちが名前で呼び合う描写は入れないようにしました。
 また、前半では村娘だった俳優が、後半では塔の中の女神たちを演じ、ラストでまた村娘たちとして登場することで、クレールが星摘みの塔を後にしてからも、女神たちはクレールを見守っているということの暗喩としました。ですが、それでは村娘たちが女神の化身のようになってしまい、意味深な存在となります。クレールはもともと神に愛されていた、選ばれた娘なのではないかと。
 そこで、序幕のオープニングアクトで村娘たちが女神の役を演じ、その役を脱ぎ捨てるという劇中劇の構造を提示し、一年後には配役が入れ替わる、ということを語らせることで、村娘たちはあくまで普通の人間であることを強調させました。あくまで村娘たちが女神たちの似姿であることは、におわせるにとどめておきます。


クレールの名前の意味

 クレールClaireとはフランス語で「澄んだ、透明な」「光がじゅうぶんにあり明るいこと」を意味し、英語でいうとclearに対応する言葉です。意味を知らなくても、語感でなんとなく、明るさを意味する名前とわかりますね。


フローラの名前の意味

 フローラFloraとはローマ神話に登場する花の女神の名前です。これに則れば、フローラもまた女神なのではないかとも解釈できますし、実際わたしもそう思っていましたが、熟考のすえボツとしました。フローラはわかりやすい名前ですね。


フローラの長い本名の由来

 わたしはフローラを「高貴な身分の娘」と解釈したので、貴族の娘っぽい長ったらしいフルネームを設定しました。「フローレンス・アールグンデ・ルクレーチア・テア・ド・クロリス」。これはクレールが記憶を取り戻したことに気付くためのキーワードにもなります。
 フローレンスは、「フローラ」が愛称になりそうな名前ということで適当につけましたが、他の単語には元ネタがあります。
 これらはすべて、「フローラ族」という小惑星団を構成する星の名前です。フローラ族は「フローラ」という小惑星を中心にして火星と木星の間を回っている無数の星の群れのこと。フローレンス以外の単語は全て、この星の名前の中から良さげなものをつなげて作りました。
 また、「フローラ」が星を意味する言葉でもあるということは解釈の上で非常に大きな発見でした。これで、塔の頂上に輝く星こそがフローラである、という大胆なアイディアを得ることができました。
 天に輝く星に変えられたフローラと、その星を目指して塔を登るフローラ、ふたつのフローラがいるわけです。そして、「フローラを演じたことで『フローラになった』クレール」という第三のフローラも登場します。


主役はどちらだ?

「レヴュースタァライト」作中で、第九十九回聖翔祭ではクレールを真矢が、フローラをクロディーヌが演じていますが、クロディーヌは「私は負けてない」「次こそ私が完全勝利」と発言しています。このことから、どうやら『スタァライト』における主役はクレールで、フローラはあくまでもうひとりの主人公、ヒロインという立ち位置として認識されているようだ、とわかります。もしかしたらクロディーヌはただ単に真矢へのライバル心からあえてそう発言しているのかもしれませんが、それはともかく。
 主役とは、物語を通じて大きく変化する人物のことです。最初はダメダメだったのに大きく成長する、最初は幸せだったのに最終的に死ぬ、など。まるで「レヴュースタァライト」の愛城華恋のように。
ですが、『スタァライト』はどうでしょうか? 運命の出会いをしたふたりが一年後に再会したら、クレールは記憶を失っていて、フローラはその記憶を取り戻すために遠い塔を目指す。だけど最終的には、クレールの記憶は取り戻されるけど、フローラは塔から落ちて(事実上死んで)、ふたりは離れ離れになる。
 これどう考えてもフローラが主人公ですよね? むしろ、主人公に助けられて最後に離れ離れになるクレールは悲劇のヒロインです。それに、第十二話のラスト、第百回聖翔祭では、クレールはひかりで、フローラは華恋。「レヴュースタァライト」の主人公である華恋は、『スタァライト』の主役ではない。立ち位置があべこべです。まあ、アニメ版は実質ひかりが主人公みたいなところはあるのですが、それはともかく。

 わたしが『戯曲:スタァライト』で、最後に塔から落ちるのをクレールに変えたのも、これが大きな理由です。クレールは最初、小さな村で友人たちと一緒に穏やかに暮らしています。そこへフローラという新しい友人ができて、星摘みの塔へと冒険し、ラストシーンではフローラと離れ離れになって村に戻り、また同じような日常へと帰っていくのでしょう。一見して同じ日常ですが、クレールの背負ったもの、見える景色は大きく変わっているはずです。日常から非日常へ、そして最後には日常に戻ってくる、元通りだけどその過程でキャラクターは大きく変化している。これは作劇のテンプレート、王道の展開のひとつです。
 でもわたしは、作品としての主役はクレールだけど、物語の主人公は圧倒的にフローラだと思っています。ですが、実質的にはふたりがメインの「ダブル主演」ということでいいんじゃあないか、と思います。


村娘ステラとフルートだけ出番が多い理由

 村娘役は全部で6人、先述の通りこれは塔の中の女神たち、そしてアニメ版「レヴュースタァライト」で女神を演じたキャラクターにそれぞれ対応させていますが、わたしの脚本の中ではステラ(純那)とフルート(なな)のふたりだけすごく出番が多いです。村でのシーンはほぼこのふたりが語り手となって、場面を進めていく。これはふたつ理由があります。
 ひとつ、クレールがある程度自由に動けるように、村側のメインキャラクターが必要だったこと。クレールは村側の登場人物ではありますが、フローラと出会ってからはふたりで一緒にいることがほとんどですし、後半は村から離れてフローラとふたりで、ほぼ出ずっぱりです。そうなると、村のことを語るための人物がいなくなってしまいます。それに、クレールが事故で記憶を失っている間に話を進める人も必要です。物語を補強するために、「クレール以外の村の娘」の中でもメインとなる狂言回しが必要だったのです。
 もうひとつは、やっぱり大場なな(と対応した役)は語り手にしたいということです。大場ななはとにかく孤独で、滔々とモノローグで「レヴュースタァライト」の裏を語りますが、ひとりでずっと語るのでは、フルートがそれこそ大場ななのように、意味深な存在になってしまいます。わたしはあくまでひとりの村娘として、村側の主人公としての存在が欲しいので、それは本意ではありません。
 なのでその隣に、対話役としてもうひとりの村娘が必要でした。モノローグからダイアローグへと変換することで台詞の自然さを保ちつつ、「特別さ」のウェイトを分散させる意味もあります。そして、大場ななと対になるのは、やっぱり星見純那(と対応した役)しかありえません。また村娘のときはペアだったのに、女神役になった時に最初と最後に別れてしまうことで、このふたつの役は別物なのだと強調する意味もあります。
 こういったこともあって、ステラとフルートのふたりだけは、物語全体を通じて台詞も多く、重要なことを語る役どころになっています。いわば準主役ですね。やっぱり「レヴュースタァライト」といえば、大場ななが第三の主役ですから。


村娘トロップ≒嫉妬の女神がクレールの事故を知らせに来る理由

 第一幕の終わり、フローラと二人でどこかへ行ったきり帰ってこないクレールを探すステラとフルートですが、そこに村娘のひとり・トロップが、クレールが事故に遭ったことを伝えるために駆け込んできます。再会を夢見てお城でひとり孤独に戦うフローラの姿を描いたのちに、唐突におとずれるショッキングな展開です。
 この事故を伝えに来るのは、他の誰でもなく、なぜトロップ(まひる)なのか? ということですが、これはトロップ=まひる=嫉妬の女神が、他の五人とは違った性質を持っているからです。
アニメ第七話、大場ななの回想シーンで、六人の女神たちの台詞が断片的に明かされています。

激昂の女神(純那)
放っても、放っても、私の矢はあの星には届かない。無邪気に星を目指すお前たちに、この激昂が分かるか!
傲慢の女神(華恋)
私ならあの星を掴める、そう信じていた。でも、それは傲慢でしかなかった。
逃避の女神(香子)
立ち向かえないなら、逃げればいい。そう、逃避するしかなかったのよ、私は……
呪縛の女神(双葉)
だけど、この慟哭と後悔の中に、私は呪縛されたまま。
嫉妬の女神(まひる)
これは嫉妬、醜い嫉妬。ならば教えて、何を捨てれば、あの人をこの手に?
絶望の女神(なな)
ああ! また繰り返すのね、絶望の輪廻を。星明かりの下で。

 もちろん、前後の場面や台詞が一切明かされていないので、ここだけ抜き取られても分かるわけがない、と思うのですが、ここで嫉妬の女神の台詞だけは性質が別です。
「何を捨てれば、あの人をこの手に?」。
 あの人、とは誰のことなのでしょうか。この星摘みの塔の中のシーンで登場する要素は、クレールとフローラ、女神たち、そして塔の頂上の「星」だけです。「あの人」というのは、唐突に差し込まれる三人称なんです。クレールとフローラが目の前にいるのに、そのどちらかを「あの人」というのはおかしいですし、他の女神たちのことを指しているとも考えにくい。それに、まったく無関係な要素をここでいきなり挿入するのも不自然です。何より、嫉妬の女神は、絶望の女神(なな)と同じシーンで登場しているというのも意味深です。
 ここから、「あの人」とは「星」を指しているのではないか、と考えられます。他の女神たちが「星」について言及していることからも、これはうかがえます。そこでわたしは、「星」が元は人だった、という設定を作りました。嫉妬の女神だけが「星」のことをいまだに「人」とみなしていることは、この女神は他の女神よりも「星」に対して踏み込んだ感情を抱いているということになります。そして「星」を手に入れようと、塔から抜け出すために、クレールという無垢な娘を利用する、という設定にしました。これは他の女神たちとは明確に異なる行動原理です。

 これは「レヴュースタァライト」で嫉妬の女神を演じていた露崎まひるというキャラクターに関連づけられます。
 しばしば言われることですが、「レヴュースタァライト」のキャラクターにはそれぞれ対となるカップリングの相手がいます。華恋とひかり、真矢とクロディーヌ、ななと純那、香子と双葉。そんな中でまひるは、対となる特定の相手がいない、いわば余ってしまっている、特異な立ち位置のキャラクターです。
 アニメでは、華恋とひかりの間に割って入ろうとして、嫉妬のレヴューを起こす(まひるからしたら割って入られたのですが)。いっぽう劇場版では、華恋から逃げ出したひかりの前にあえて立ちはだかります。つまりクレール(ひかり)とフローラ(華恋)のふたりと戦うというわけです。まひる以外でこれを明確に描写されているのは、同じクレールとフローラである真矢・クロディーヌと、とりわけ特殊なキャラクターであるなな。こう書くと、露崎まひるというキャラクターの特異性がわかります。ラスボス同然の立ち位置で登場するキャラクターと、似た立ち位置なわけです。

 話を戻します。
 クレールが事故に遭ったことを真っ先に知るのは、村娘トロップです。それをステラとフルートに伝えに来ることで、観客にもクレールの身に何かが起こったことを知らせることができます。そして、トロップを演じた俳優が、星摘みの塔の場面では嫉妬の女神という、「星」に対して踏み込んだ感情を抱いた人物を兼ね役で演じます。女神たちの中でも、特に印象的な立場のキャラクターです。だからこそ、絶望の女神(なな)と並んで、ふたりを塔の頂上へと導くという大きめの役割を担わせました。
 クレールが事故に遭ったぞ、と伝えに来た人……つまり第一発見者が、実はすごく重要な女神のキャラクターと兼ね役、観客からすれば同一人物のような存在として登場するわけです。ミステリでも実際の事件でも第一発見者は真っ先に疑われるものです。
 だとすると……クレールの「事故」って、本当に偶然なのか、本当に「事故」なのか……? ということになりませんか?
 これはわたしの当初からの疑問のひとつでした。クレールが記憶を失うきっかけとなった「事故」……あまりにタイミングが良すぎるうえに、描写が皆無なので詳細もわからない。具体的に何が起こったのかは明かされないんです。
 まるで隠されているみたいに。
 ……トロップがクレールを突き落としたんだ、と言いたいわけではありません。クレールが事故に遭ったのは偶然じゃない、運命だったのだ、ということを言いたかったのです。先ほどステラとフルートの解説であえて否定はしましたが、村娘たちは女神と同一人物(のようなもの)です。同じ俳優が演じるわけですから、少なからずそういう要素は生まれます。だからこそ、クレールの身に起こった重大な「事故」を伝えに来る役割を背負わせられるのは、わけても特別な立ち位置を持つトロップしかいなかったのです。
『スタァライト』は、必ず別れる悲劇」。ですので、クレールとフローラが出会ったあとには、必ず別れのきっかけがなくてはいけません。その最初のきっかけが、クレールが事故に遭って記憶を失うことです。それが偶然なわけがない、あえて明言こそしないけれど、これは女神によってもたらされた運命なのだ……という含みを持たせたかったのです。無垢な娘に星摘みの塔を開かせて、みずからが「星」を取り戻すために。

 だからこそ、あの場面でわたしが選んだのはトロップ(まひる)でした。彼女もまた特別な存在だからです。


「フローラの召使い」という九人目

 これもまた苦肉の策として登場したキャラクターです。やんごとなき身分のお嬢様でありながら、城を抜け出して勝手に遊びに来たフローラを連れ戻すための九人目の登場人物。出番は少ないですが、彼女という「外部の力」がフローラとクレールを引き離すからこそ、来年また会おうという約束が機能するのです。
 アニメ版などの関連コンテンツで一才語られることのない完全オリジナルキャラクターなので、ある意味「最後の手段」として登場させました。「フローラの正体をバラす」「クレールとフローラを引き離す」「第二幕の最初でフローラがすでに死んでいることを示唆する」という重要な役回りを、たくさん、無理なく被せられました。アニメで明かされていた断片的なシーンの数々を繋ぐための影の功労者です。
 それに、『ロミオとジュリエット』のジュリエットの側仕えのばあや然り、お嬢さまのお付きの者は、おしゃべりでそそっかしいものと相場が決まっています。こういうおしゃべりでコミカルな役回りこそ、意外と観客の印象に残るもの。台詞も長いし、演じ甲斐のある役なのではないかと思います。


『星摘みの歌』とミュージカル要素について

「レヴュースタァライト」のサントラにも収録されている『星摘みの歌』は、そのまま『スタァライト』の挿入歌であるのは間違いありません。わたしの脚本でもこれは外せなかった要素として、一部歌詞を引用させていただいております。
 劇中劇である聖劇の中でこれを歌わせて、それを聞いたフローラがクレールと一緒に歌って、また記憶を無くしたクレールがフローラとの絆を再確認するためのポイントにもなる。
『スタァライト』はたぶんミュージカルだと思うので、ほんとうは歌ってほしい場面はたくさんあります。髪飾りを探して村を駆け回りながらモブの村人たちと挨拶するクレールとか、お城でひとり孤独と絶望を嘆くフローラとか、星摘みの塔の扉が開いた時に中から響いてくる女神たちの荘厳な歌声とか。
 ですが歌詞を考えるのは難しいし、何より原作の「レヴュースタァライト」の世界観を壊しかねないと思ったので、歌についてはあえて脚本には書いていません。もしこれが上演されるときが来るなら演出家の人にあれこれやってもらいたいところ。


 

まとめ……「レヴュースタァライト」は『スタァライト』である

 脚本を書くにあたっては、まずアニメ版も劇場版も穴が開くほど見返しましたし、作中の台詞を文字起こしたりもしました。そこで気付いたごく当たり前な事実が、これです。
 なにげないワンシーン、当たり前のようにそこに据えられたアイテム。それらが実はすべて『スタァライト』をなぞっているとしたら? というか、そうでないとおかしいんですよね。だって「レヴュースタァライト」なんだから。わたしたちの見える範囲で『スタァライト』が演じられていない、なんて変なんですよ。
 つまり、全体像が明らかになっていない謎の架空の戯曲『スタァライト』を解き明かすためのヒントは、実はすべて提示されているのではないか。わたしたちは既に『スタァライト』を知っているのではないか?
 実際に『戯曲:スタァライト』を書いてみて、それを確信しました。

 例えば、アニメ第四話の「廊下の女神」のシーン。華恋が無断で寮を出たことを教師にチクりに行こうとする香子の前に「お待ちなさい! 私は廊下を守る女神」などとうろんなことを言いながら立ちはだかるまひる。
 一見するとギャグシーン、いきなり女神とか言い出しちゃうヤバい娘なわけですが、ちょっとよく考えてほしい。『スタァライト』を演じる彼女たちにとって、女神ってそんなに軽い言葉じゃないはずなんですよ。つまりこのまひるのシーンも、実は『スタァライト』の一場面をなぞって芝居がかったことをしているんじゃないか?
 そう思ったので、わたしはこのシーンの「元ネタ」となるシーンを作りました。それが傲慢の女神=村娘リーベ=愛城華恋(に対応する役)の登場シーンです。暗がりから剣を突き出し、「お待ちなさい」と行手を阻む。華恋が演じていたシーンを、まひるも真似していたんじゃないか、という解釈もとい妄想です。そういう風に、こじつけようと思えばいくらでもこじつけられる要素が、「レヴュースタァライト」には散りばめられています。だからこそ無限の解釈が成り立つわけですが。

『スタァライト』のディテールについて、どこまでが考えられているのかはわかりませんが、実は世に出ていないだけで、「レヴュースタァライト」の製作陣にだけ明かされている『スタァライト』の完成稿が存在していて、それを元にして各媒体が作られているのだとしたら……
 その原本を読ませてください! とも思いつつ、それは世に出さないでくれ……! とも思います。『スタァライト』の「正解」が世に出てしまう時は、これだけの熱狂的なブームも終わる時でしょう。それがいつ来るのかは、わかりませんが。
 でも、仮に「正解」が出たとして……百人いたら、百通りの『スタァライト』があってもいいじゃない。みんな違ってみんないい。『スタァライト』にそれぞれの個性を投影してもいいと思います。そもそも「レヴュースタァライト」でも、脚本の雨宮さんは毎年相当四苦八苦しながら毎年『スタァライト』を書いています。同じ戯曲を元にしているのにそれだけ毎年悩んでいるということは、逆説的にこの作品には自由が認められているということです。なにせバッドエンドをハッピーエンドにしても成立するんですから。
 わたしは、とにかく戯曲の形でこの作品を読みたい! と思ったので、自分で作るという荒技に出ましたが、ぜひみなさんにも戯曲を書いて欲しい。夢は『スタァライト』オンリーの戯曲本を作ることです。そのさらに先の夢は上演されることですね。それは高望みしすぎかもですが、せっかく脚本として書いたんだから。

 というわけで、ある意味究極の自己満足でしたが、お付き合いいただきありがとうございます。脚を食べて脚を生やすタイプの舞台創造科新入生・王生らてぃでした。
 さあ、わたしは書いた。みんなも、『スタァライト』を書こう。そして読ませてください。

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