【覚え書き】仲宗根豊見親の琉球王府への宝剣・宝玉献上について 宮古毎日新聞文化欄を読んで
新聞に郷土史にまつわる記事があって面白く読みました。ひとつは宮古島の仲宗根豊見親の琉球王府への宝剣・宝玉献上(1522年)は、称号廃止といった危機にあたって一門再興をはかったものなので、その要因となった「野原岳の変」は宮古史傳に記された1532年より以前ではないかと推測するもの。
琉球王府と宮古・八重山というそれぞれの力関係など、小さな島にも中世らしい謀略があったのだなあと…もうひとつは東平安名崎ちかくにあるマイバー海岸の北にかつて倭寇の避難所(甲螺:カーレ)だった場所があり、さらに宮渡崎と青崖(おーがき)と呼ばれる場所があるという話。
記事の投稿者は今年の4月にその場所をおとずれた体験を記しているけれど、読んでいるとつい行ってみたくなる。時間にうもれて忘れ去られた歴史の場所。青崖の名前の由来。来年の大潮の日とかに歩いてみようかな。
2018.6.10 追記
週末の新聞の文化欄に、仲宗根豊見親から尚真王への宝剣・宝玉献上にまつわる考察記事の続き載っていました。多くの文献で嘉靖元年(1522年)とされる献上ですが、「忠導氏家譜」は弘治年間(1488〜1505)と記す。この記述のずれにはどんないきさつがあるのでしょう。
王府から信頼を失うこととなった「野原岳の変」から一門の再興をはかる祭式で、豊見親にかかる5編のアヤゴはまさに歌われたのではないか。(英雄譚としての物語化のため)宝剣・宝玉献上は、八重山平治とひもづけられる弘治年間のこととされる必要があったのかもしれない、と筆者は推測しています。
雅やかな歴史のうらにある俗っぽい心の動きが面白いと思いました。琉球王府の先島全域掌握は、仲宗根豊見親ら宮古軍による与那国島の鬼虎の乱の制圧をもってなされましたが、私としては、どうしても抵抗者たちの歴史に感情を移入してしまいます。
いう流れで、鬼虎の視点から見た歴史物語の紹介を見つけて、これはぜひ読みたい・・・と思ったのでした。
ATALAS Blog:2冊目 「鬼虎伝説 与那国を守った男」/「シギラの月」
http://atalas.ti-da.net/e8116761.html
もうひとつ、東平安名崎の南にあったとされる宮渡(みゃーど)を訪ねる記事の続きも面白く読みました。海の端道(イムヌパナンツ)を渡って行く先にある「宮」が神聖な場所とされていたのではないかと推測する記事です。
現在のオーシャンリンクスゴルフ場のあたりの保良元島、平安名村、前場海岸付近の宮渡が、宮古島でも早い時期に人が住み始めた場所ではないか、という説があります。平良港一帶は近世の歴史の跡が残っていますが、いにしえの宮古島をしのぶならやはり東平安名崎あたりかもしれません(写真は保良海岸)
あっ、追加でもうひとつ。この嘉靖元年に献上された宝剣は治金丸のこと。ちょうど那覇市歴史博物館の企画展で展示されているんですね。この刀の由来も気になります。こういう時、沖縄本島が遠い・・・
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item1/2059
鬼虎にまつわる考察、宮古島市総合博物館のものが出てきて、つい読み込んでしまう…鬼虎の乱、島民を庇ったものとする説と、鬼虎が傍若無人にして、与那国与人が反乱の名目で王府に請願して討伐した説があるんですね。王府は忠誠心を試すために仲宗根豊見親に難題を承知で命じたのだそうで。
冷静な筆が鬼虎の娘の話に差し掛かるといくらか乱れるあたり、書き手の人柄が見えるようです。
【PDF】仲宗根豊見親と鬼虎〜与那国攻入りの年代について〜
https://www.city.miyakojima.lg.jp/soshiki/kyouiku/syougaigakusyu/hakubutsukan/files/kiyou14-01.pdf