自己尊重と感情の解放

前々回の記事で「不安定な自己像と優越感(劣等感)」について触れました。

常に自分と他者を比較すると不安定な自己像ができてしまい、優越感と劣等感の間で揺れ動き、安定した「等身大の自己像」が見れなくなってしまうという仮説でした。

今回は、自分で自分を尊重する「自己尊重」をしてまず傷ついた自分を癒し次に長年蓄積した負の感情(怒り、憎しみ、悲しみなど)の解放を優先する、私が認知のゆがみを矯正させるために実際に行った手法を記載します。


大事なのは「本当の自分と向き合いたい」「認知のゆがみを治したい」という個人の前向きな意欲だと私は思っています。自分自身が、自分の生きづらさに対して真摯に向き合おうとするなら、私も一緒に問題の本質に向き合ったり、改善策を模索し続けたいと思っています。なので、そういう意思が現状ない方は見ないことをお勧めします。見ないという選択もあるよ、ということです。(こういう注釈をするのは、お互いに何のメリットもない争いにエネルギーを使いたくない&負の連鎖を新たに発生させたくないからです。無意味だし…)

もちろん、これは個人的な手法でしかありません。私は治療者ではないので、効果を保証することはできません。実際に効果があるかはやはり人それぞれで個々人の認知のゆがみによる捉え方の違いも大いに関わってくると思います。(認知のゆがみや等身大の自己像の捉え方については、今回書き切れなかったのでまた別の機会にしようと思います。伸びに伸びて申し訳ないです。)

では、そのあたりを加味した上で話を進めていこうと思います。


順序→①心のケア(自己尊重) ②感情の解放 ③「盾」の認識  


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<①心のケア(自己尊重)>

成育環境で人格否定されたり、逆に甘やかされたり、どちらにしろ実際の能力や状態を無視した逸脱した評価をされ続けた人は、理想の自分と本来の自分、2人の自分が内面に存在していると感じています。理想の自分は、親や周囲の妄想や理想によって作られた、いわば偽りの自分です。対して本来の自分は、文字通り「本来の自分」そのもののことです。誰の期待にも応えなくていい、応える必要もない、素の自分、ありのままの自分のことです。

生きづらさを抱えている人は「こうあるべき自分」と「現状の自分」にすごくギャップがあるように感じています。以前の私で言うと、完璧主義だった私は「完璧でなければ価値のない自分」と「不完全で価値のない自分」の間で揺れ動いていて、劣等感を抱えたと思えば優越感を抱えての繰り返しで、いつでも不安定な状態にあり、生きづらさ、息苦しさをいつも感じていました。

そんな時に「ありのままのままの自分でいい」と自分自身を肯定して尊重する方法を取り入れました。これが「自己尊重」です。「自己受容」「自己肯定」と呼び方は色々あるみたいです。呼称はともかくとして、何をするかといえばただひたすら自分を肯定し、慈しみ、ねぎらいます

尊重するということは、自分の感情・思考・想像を正面から受け止め受容れるということです。自分の素直な気持ちを感じて、顧みることです。

自分の素直な気持ち、嬉しい、楽しい、つらい、苦しい、そういった感情全てを人間は自分自身わかっているようで、わかっていないことが多々あります。これは「感情凍結」という後半③の項目で触れる「盾」と呼ばれる存在が影響していると私は思っているので、後述します。


偽りの自分とありのままの自分との間に差が出ている人は、がんばっていない人じゃなくて、逆にすごくがんばってきた人だと思うんです。がんばっても、がんばってもがんばっても、なかなか差が埋まらない。そのジレンマが苦しさに繋がってしまっているように感じています。なので、一旦今までやっていた「がんばり方」から離れてみることが必要だと思うんです。がんばってうまくいかなかったのは、自分の能力や努力が足りないんじゃなくて、これまでの「がんばり方」が自分に合ったやり方ではなかっただけだと思うんですよ。

自分に合ったやり方を新しく探すためにもまず、それまで頑張ってきた自分をひたすら慈しんであげます。


でも慈しむって、肯定するって、ねぎらうってどういうこと?となってしまう場合、以下に「私だったら過去の自分をこう慈しむかな~」というポエム的な文章を載せてみました。人によっては内容に合わない部分ももちろん出てくると思いますので「本当は人からこう言われたかった」という理想を元に文章を考えてみてもいいのかな、と思います。


イメージは、傷ついた過去の自分と、今の自分が対話している感じです。



-----------   ここから    -------------

今までとても長い間、本当によくがんばりましたね。こんなに傷ついた状態でがんばって、耐えて、ボロボロになりながら、それでもまだがんばろうとしたあなた。もう、がんばらなくていいんですよ。耐えなくていい。無理しなくていいんです。あなたはこれまで、もう十分がんばりました。人から否定され、理不尽なことをされて、傷ついて、傷を負った状態でもまだがんばって、よく耐え抜きましたね。これは、誰にでもできることじゃありません。あなたは、意識しなかったかもしれないけれど、あなたには生命力というとても大事な力が備わっています。これは、素晴らしい力です。

これからは、がんばることをやめていいんです。がんばらなくていいんです。あなたが悪いんじゃなくて今までのがんばり方が合わなかっただけなんです。やりたくないことをやって、傷つくのはもうやめにしていいんです。やりたいことがあれば、それをやっていいんです。やりたいことがわからなければ、それを探しにいっていいんです。やりたいことがなければ、何かをやりたくなるまでゆっくりと休んでいいんです。あなたは、あなたの心は、自由なんです。

今までたくさん傷ついてきた分、あなたの中には、あなたを傷つけてきた記憶や間違った常識があると思います。それらは、もう、持ち歩かなくてもいいんですよ。邪魔だと思ったら、捨ててしまっていいんです。頭にこびりついて、なかなか簡単には捨てられないかもしれないけれど、「捨ててもいいもの」と思っていいんですよ。生きることは「過去」「今」「未来」この時間軸の中に存在するということですが、大事なのは「今」と「未来」です。「過去」は、あなたの「今」「未来」に必要がないものです。持ち歩かなくていいんです。

つらかったこと、イヤだったこと、苦しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと……なかなか忘れられずに、どうしても思い出してしまいますよね。どうしても思い出してしまう時は、その時に戻った気持ちで、思いっきり自分の感情を解放してもいいんですよ。もう、無理矢理隠さなくてもいいんです。思いっきり泣いても、わめいても、つらかった!イヤだった!と叫んでも、何をしたっていいんです。あなたはもう、誰にも何にも縛られず、自由に自分の感情を感じていいし、苦しかった全ての感情を解放してもいいんです。

人からされてイヤだった行為や、言われてイヤだった言動は、無理に許す必要はないですよ。許すか許さないかを決めるのは、他の人じゃなく、あなた自身です。あなたは何を考えても、何を感じても、何を想像しても良いんですよ。本来の自分ならどう感じるか、どう考えていたか、どんな自分が良かったか、過去の記憶と向き合って、本来の自分らしさを取り戻してもいいんですよ。 本来の自分を取り戻して、これからのあなたは、あなたが生きたいように進んでいいんです。自分に優しくしても、自分を大切にしてもいいんです。

これからは、自分のために生きていいんです。本当の自分を探して、自分だけの人生を生きていいんです。あなたには、それだけの価値があります。


-----------   ここまで    -------------


「自分は自分でいいんだ」と思えるまで、私は自己対話を繰り返しました。

私はずっと、自分自身の苦しみを誰かに受け止めて欲しいと心の奥底で思っていました。しかし、自分と人は違う他者なので、自分の苦しみを100%共感することは不可能です。なら、この苦しみとは一生離れられないんだ!と絶望していたのですが、そうじゃなかったんですよね。

自分自身が自分の最大の理解者になることで、苦しみから解放できたのです。自分を理解するということは、自分を好きになるということではありません。生きていくということは、自分自身とうまく付き合っていくということです。自分が自分を理解しない状態で他者に対して「自分を理解しろ」と言っても、自分も他者も苦しくなる一方です。このジレンマを抜けるには、まず自分から自分を理解しようと歩み寄ることが大切だと考えています。

同一視が蔓延した環境では、どうしても「誰か」「他者」からの理解や共感を優先して求めてしまいます。そこには「自分自身」が「自分」を理解し共感していないという心理が隠されていたように思うのです。


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<②感情の解放(怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ)>

自己尊重はとても重要だと思いますが、自己尊重するだけでなく、蓄積された心の奥底にある負の感情と向き合うことも必要になってきます。

これはすごく根気のいる作業になります。特に、自分自身の「怒り」を抑えてきた人にとっては、見たくない現実と向き合うようなことだからです。しかし感情の解放なくして、認知のゆがみは矯正されないと私自身は感じました。

理不尽で不条理な親を「毒親」と揶揄しますが、感情の解放は「毒の解毒」と同義と考えます。毒は解毒しない限り、自分を蝕み、自分を支配し、やがては他者をも巻き込んで毒は連鎖し、社会全体を負の連鎖させていると感じます。自分自身に植え付けられた「毒」は「悪性の感染症」と同じです。放置すると悪化し、周囲にまき散らす危険性があると思っています。


ではどうやって感情を解放するか、ということなんですが、私自身は対象者に「されてイヤだったこと」「されて不快だったこと」「されて許せないこと」など、対象者に対する怒り・文句・悲しみといった負の感情を全て思い出し、外部に吐き出しました。外部に吐き出すというのは自分の心からアウトプットするということで、私の場合PCのメモ帳に全てを打ち込みました。私は書くという行為が苦手なのでPCにしたのですが、もうこのあたりは個人に合ったやり方がいいと思っています。ノートへの記入でも、習字でも、発声しても、エクセルに打ち込んでも、ブログに書き殴っても、Twitterに吐き出しても、もうとにかく「アウトプット」する作業なら何でも良いと思います。

(ブログやTwitterで吐き出すとなんやかんやと言われることもありますが、そういう否定コメントやリプライは現状徹底して削除・ブロックでOKです)

例えば「親に褒められなかった」という憤りをアウトプットする場合、感情も一緒にアウトプットしていきます。「事実」と「感情」を併せてアウトプットしていくことが重要です。「親に褒められなかった」とPCに打ち込みながら「ちっくしょー!!なんであんなに頑張ったのに褒めないんだよーー!」と、感情を大放出していきます。もうこれは泣いてもいいし怒ってもいいし、大声で叫んでもいいです。もう感情の赴くままに思いきり、心の底に存在している怒りや憤りや悲しみを出し切る覚悟でアウトプットします

私が読んだ心理カウンセラーの方のブログには、「紙に書いて燃やす」という方法も書いてありました。とりあえず火事には気を付けないといけませんが、視覚的な効果が伴うしアリかもです。紙に書きぐしゃぐしゃにしてビリビリに破くとかもいいかもしれません。ただし終わったあとの片づけが大変なのと、誰かに見られてはいけないので鶴の恩返しのようにひっそりと作業しないといけないという注意点もあります。

そしてこの作業で重要なのが、絶対に無理しないことです。蓄積された感情は一朝一夕で消えるものではありませんので、ゆっくりと進めていきましょう。「事実」と「感情」をアウトプットして「うわー!限界だー!」と思ったら、前章の「自己尊重」をして定期的に自分自身を癒してあげることが重要です。


自己尊重→感情の解放(①事実認知→②感情のアウトプット)→自己尊重

感情の解放前後は自己尊重をサンドイッチして、常に自分の心をケアします。


これを繰り返して、「もう怒ることはないな!」「出尽くしたな!」となれば終わりとなります。私はどうも単純すぎるようで、論理的整合性が伴えばすぐ腑に落ちてしまうことがあり、論理的な人は割と早く終わるかもしれません。MBTIでいうと「T」思考型の人です。逆に「F」感情型の人は時間がかかってしまうかもしれません。でも、終わりの見えないトンネルでは決してないと私は思っているので、トンネルを抜けた明るい未来を想像して、希望を捨てずにゆっくり進んでいって欲しいと思っています。「F」型は感受性豊かで優しい人が多いので、トンネルを抜けたら、周囲を癒したり和ませるポテンシャルがあると私は考えています。MBTIの話は、機会があれば記事を書きたいです。



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<③「盾」の認識>

ここからは傷ついた自分を癒し終えてからになります。人によっては同時進行でも問題ないかもしれませんが、個人的には分けた方が良い作業だと感じています。なぜなら①心のケア②感情の解放 この2つは過去と決別する作業で、③「盾」の認識や、等身大の自己像の認知は現在を知る作業になるからです。時間軸が少し違うので混乱する可能性が無きにしも非ずだと感じます。さらに私はこれを「本当の自分と向き合いたい」「認知のゆがみを治したい」という前向きな意欲がある方に向けて発信しています。前向きというのは「未来」へ向かうことなので、「過去」はどうしても分けて考えないといけないのです。

私は前、毒に侵された状態のまま生きている時「なんで生きてるんだろう」と常に自問自答して葛藤して、生きづらさを感じていました。私のような環境で育った場合、「過去」に縛られて「未来」どころか「今」すら見れない状況だと思うんです。自分の人生の時間軸を認識し、過去を手放し今を知り、未来へ向かっていくことが、人間の「目的」だと思うのです。どうせ生きるしかないなら、つらい思いを抱えて苦しむより、楽しく生きたいと私は思ってます。


で、本題の「盾」とはなんぞやって話なのですが。前回、このような絵を提示して「等身大の自分」について取り上げました。

前々回はこの画像や事例を出して、「等身大の自己像」を見つめられないのは自分と他者と比較する「同一視」が邪魔をしているからではと推測しました。

等身大の自己像を見たいのに、見られない。それは何故かと言うと、等身大の自己像の前に「盾」のような存在があり、自分の視界を覆っている。それゆえ等身大の自己像ではなく、尊大な自己像や、卑下する自己像といった不安定な自己像ばかりを見てしまうのではないかと考察します。



心理学で言うところの「認知のゆがみ」(詳しくはwikiなどをご参照下さい)が、この「盾」という存在に近しいものだと感じています。では、「盾」とは一体どういうもので、どうして「盾」を装備するかという仮説に移ります。

「盾」は、成育環境・社会環境など、いわゆる「世間」と呼ばれる環境に蔓延した「常識になってるけど考えたらおかしくね」という固定観念のことです。なので「盾」を装備していることは本人の希望ではなく、本人を取り巻く環境に要因があり装備を余儀なくされている、というのが私の見解です。

「毒親やモラハラという存在は本人だけの問題ではなく環境がつくっている」という私の考えもこのあたりに繋がってきます。

そしてこの「盾」を装備してしまうと、「等身大の自分」が認識できなくなるバグが発生してしまいます。「盾」に起因しているため、本人の努力不足では決してないと考えます。

そしてこの「盾」には種類がいくつかあり複数で構成されていると考えます。ひとまず今思いついている「盾」の種類は、以下の5つです。

盾… ①同一視 ②完璧主義 ③思考停止 ④感情凍結 ⑤他者環境依存

それぞれかいつまんでお伝えしていきます。


まず①同一視 ②完璧主義 に関しては、少し前に「以前の私、これからの私」というタイトルの記事の中で触れたり、Twitterでもつぶやいたりしていて、それらと重複する内容でもあります。

①同一視は、自分以外の他者を自分とは違う別の存在と認識できなかったり、自分と集団などの環境を別個の存在と考えられなくなる現象です。本来は全く別の存在にも関わらず、自分のことと同じように考えたり、自分のものさしで判断したものを人に押し付けたりしてしまうことです。

同一視の「盾」は現在の日本に恐ろしいほど蔓延しています。例えば最近だとベビーカー必要・不必要論争がTwitterで賑わいを見せていましたが、あれも同一視の一種です。利便性・効率を追究できる知能が備わった人間が開発した便利な道具の一つになのに、ベビーカーだけを不必要だと否定する背景には「過去にはそんなものなかったし、使わなくても生きていけるはずだ」という過去と現在の環境を同一視しています。さらには「自分は使わなかったから、他の人も使わなくてもいいはずだ」と、自分と他者の同一視も潜んでいます。同一視だけでなく日本に根付いてしまった男尊女卑や苦労や我慢の美徳という「つらい思いをすればするほど美しい選手権(特に女性)」が現在も開催され続けてるという背景もあると思っています。この選手権、意味ありますか?

「昔はなかったんだから不必要」なんて言ってしまったらそれこそ極論です。全裸で動物を追いかけて狩猟をする時代に退化したいわけではないですよね。人間は高い知能があるからこそ文化を築き、変化に柔軟に対応できたわけで、ダーウィンが進化論の中で「変化に対応すること」を言及したように(これは掘り下げると諸説あるそうですが)大事なのは「今の状態がどうか」であって「過去の状態がどうだったか」ではないと思います。時代も人もその都度変化していくのだから「昔はこうだったのに」と過去と今を比較して不満を嘆いてもどうしようもできないと私は思うんですよね。不満は前章の「自己尊重」と「感情の解放」を用いて、自分で処理していかないといけない。自分で処理をするのは苦しいけど、過去の自分の持つ苦しさの根本から逃げる有効な手段が他にない気がします。タイムマシンを開発して過去を変えれたらそんなことをする必要もなくなるかもしれませんが…現状はなんともかんとも。

かいつまむはずがガッツリ自論を展開してしまいましたが、この「同一視」が蔓延している背景は「人は人で自分は自分、自分と人は別の個体」と分別して考えようとしない現在の社会の在り方だと思います。「みんな辛いんだから」「自分はもっと大変だった」こんなのほんとクレイジーですよ。自分と他者はどう頑張っても別の存在でしかなく、人類補完計画でもない限り人間は同一の個体にはなれません。感じ方も考え方も人それぞれ、自由でいいものです。


さてさて、では次です。今度こそかいつまんでいけるよう努めたいです。

②の完璧主義は、完璧な状態以外に価値を見出せなくなってしまい、不完全な状態を無価値と判断してしまいます。この「盾」があると、完全でない自分は無価値と思い込んでしまいます。

人は不完全な個体です。不完全で、できること・できないことがあるからこそ「集団」で「社会」を営む必要があります。それぞれの持ち味を生かしつつ、できないことを補い合いながら、人と関わり合って生きています。しかし今の日本は「勉強もスポーツも」「不得意科目のないように」という学校教育から始まり、最終的に「ミスのないように生きろ」「一度でも失敗したら終わる」という完璧主義思想に行きついてしまっています。受験も、就職も同じです。多くの会社は一向に新卒至上主義を改めようとしません。失敗した人から優先してつまはじきにする社会の在り方が出来上がってしまっているからです。

大事なのは「失敗しないこと」ではなく「失敗してもまた次に挑戦する意欲」だと私は思っています。失敗すると人は多くのことを学びます。どうやったらうまくいくか、どこを変えたらいいのか模索する探究心無くして、時代も人も社会も変化していかないと考えます。

ちなみに「同一視」と「完璧主義」がコラボすると、「どうしてそんなこともできない」「自分ならこんなミスはしない」という現在流行のモラハラ社会ができあがります。この過剰な抑圧縦社会が現代のギスギスした状況を量産し、他者を全く配慮しない自分優位の思想を植え付け、ストレスが発生すると弱い立場の人へ八つ当たりする社会全体の負の悪循環に繋がっていると思います。


その悪循環に巻き込まれると③思考停止④感情凍結に繋がると考えています。

③思考停止は「思考することを停止すること」つまり「考えない」ことです。私は「ゆがみちゃん」として活動する以前から、社会問題を考えたり解決策を模索したりしていたのですが、そういう話をすると必ずどこかから思考停止の人がやってきて、「そんなこと考えるだけ無駄」「考えたって無意味」と水を差していきます。結局「社会が良くなることなんてありえない」と諦めているから、考えることは無意味なことだと思い込み、「同一視」で同じ考えを人へ押し付けようとしてしまうのです。

④感情凍結は「感情を感じないこと」つまり「感情の不感症状態」です。人とロボットの決定的な違いは「感情があること」です。嬉しい、楽しい、好き、嫌い、つらい、苦しいなど人間には様々な感情があります。しかし、抑圧社会では自由な感情を持つことを否定されます。私は親から「泣くな」と言われ、「悲しいから泣く」という感情を封印し、人前で泣けなくなりました。悲しいから泣く、そんな当たり前のことを良しとしない状況では、人は感情を抑えてまるでロボットのように、冷徹に、冷酷に、冷静にふるまってしまうのです。しかしどこかで絶対にボロが出ます。ロボットじゃないからボロっとでます。

そもそも感情が「ある」のですから。例えば日本て「男は絶対に泣くな!弱音を吐くな」と言われるじゃないですか。あれは「感情を感じるな」に近い意味だと思うんです。感情に性別は関係ないのに、男性ばかりが感情を黙殺されてしまう。これはもはや「感情の心狩」です。そもそも「ある」ものを、あって当然のものを、無理矢理取り上げて無いものだとしてしまっているわけです。

一概には言えないのですが、日本の男性は「今、自分が何を感じているか」がわからない男性が多い傾向にあると感じています。明らかに怒っている状態を「怒っていない」と言ったり、喧嘩すると喋らなくなることがありますよね。(もちろん女性でも「怒ってない」と言って怒ってる状況はあるんですけど)この原因は、幼い頃から感情を黙殺されることで、もはや自分が何をどう感じているかが自分でもよくわからなくなっている状態な気がするんです。怒りを人にぶつけないよう自制しているから黙る、とも言われていますが…MBTIの「T」Thinkingー思考型と、「F」Feelingー感情型は、「T」型が男性で、「F」型が女性が多いという研究結果が出ているそうですが何か関係してるんじゃないかなーと思っています。元々の脳のつくりもあるかもしれませんが、環境に起因するものもゼロではないと思うのです。

そういう意味では、私も「感情を感じるな」と親に言われて育ったのである種同じなんですよね。で、「T」型なのかもしれません。たまに「男みたい」と思考が男性寄りだと指摘されることがあって、自分でも思うこともあります。私が考えるにこれは「男脳」や「女脳」というよりは、自分の感情を長年否定して生きていたからだと思うんです。そして、自分の本当の感情がわからないからこそ、ぼんやりとした生きづらさを抱えていたようにも考えられます。

でも私は「人間は感情があるからこそ素晴らしい」と思います。感情を感じて豊かな表現や多様な文化が創造されたのだから、感情を抑圧しては本来の力が発揮できない、これはとてももったいないことだと思っています。負の感情はともかく、嬉しい、楽しい、好き、といった陽気な感情まで封殺される現状は見ていてとてもつらいし、心苦しいです。


最後ですが、⑤他者環境依存、これは「原因は全て他者もしくは環境にある」という概念です。私の祖母「ゆがみちゃん」に出てくる祖母のうらみがまさにこれというか、簡単に言えば「何でも人のせいにしている状況」といえます。全てを批判・否定したもん勝ちの「論破したがり思考」「マウンティング」も同じだと思います。中身のない否定というか、問題提起するわけでも解決策を模索するわけでもなく、あら探ししたり揚げ足を取ったりして、歩み寄ろうとできなくなっている、不健全かつ、全く建設的でない状態のことです。

上記に説明した①~④までの「盾」は、環境や考え方を少しずつ変えていけば手放しやすい「盾」だと思うのですが、この⑤の他者環境依存の「盾」は強力と言えます。他の項目が「盾」なら、この⑤だけは「鏡」に近い「盾」です。普通の「鏡」ではなく白雪姫に出てくる王妃の所持する「魔法の鏡」に近く、所持すると「魔法の鏡」が常に自分を正当化してしまうので「本当の自分」が見られなくなってしまっている状態といえます。


私も一時期、「魔法の鏡」を所持していました。残念ながら、祖母から自然に受け継いでしまったんだと思います。「魔法の鏡」を持つと万能感――自分は有能だ、自分は人より特別なんだという意識が生まれ、尊大な自己愛を持ってしまいます。しかし実際の自分は有能でも特別でもないので、結果的に周囲とと自分の評価とのギャップに苦しみ、ストレスが生まれてしまっていました。このストレスの行き着いた先が「アルコール依存」と「他者批判」でした。

アルコールに依存していた時は「ストレスを感じてしまうんだから仕方ない」他者を批判する時は「叩かれて仕方がないことをした人なのだから仕方ない」と自己を正当化して、ストレスを酒や人にぶつけて八つ当たりしていました。(例えどんなことをしても、叩かれるべきは「罪」で、「人」ではないのに)この原因になっていたのが私の場合は「感情凍結」で、自分の本当の気持ちがわからず、不安と自己嫌悪でいっぱいになっていたからだと感じています。

「魔法の鏡」は一度持ってしまうと、「正当化された自分の姿」ばかりが常に見えてしまうので、なかなか手放しにくくなってしまうと考えています。でもきっとどこかにスキがあるはずです。私の場合のスキは、「楽しことをする」ことと、「認知のゆがんでいない人から間違いを正されること」でした。

まず「楽しいこと」は、自分が楽しい!と思うことを徹底的にすることです。もちろん、誰かを巻き込んだり悲しませない範囲の「楽しいこと」です。何を楽しいことだと思うかは人によって違うと思うんですが、音楽、映画、運動、芸術、勉学、旅行、思想などの「文化」が該当します。幸いにも地球上には、生きてる間にしつくせないほどの多様な文化があるので、1つ1つ探すうちにきっとなにか1つくらいは好きなものが見つかると私は思っています。

こないだ歌手のYUKIが、「正しいより楽しいを選べ」と言っていたのですが私もこれに完全同意です。楽しいことを優先すると不思議といい方向へ進んでいくので、「楽しい」という感情は素晴らしいなあと思います。

楽しいことをすると心に余裕が出てくるので、ここが「盾」を手放すチャンスだったように思います。日常に不満ばかりで、ガチガチになっていると「盾」を手放すところかさらにしっかり持ってしまったと、自分の場合は思います。

そして、「認知のゆがんでいない人から間違いを正されること」ですね。私の祖母の不憫なところは、周りがみんな(強制的に)イエスマンになってしまい誰も間違いを正してくれなかったことにあります。もちろん「それは違う」と言うと祖母はガソリンを注がれた炎のように怒り散らすので、接し方と対応は考慮しないといけないのですが、間違っていることは間違っているし、理不尽なことは理不尽でしかないので、目をつぶってはいけないんだと思いました。指摘は祖父が適役だったと思います。しかし祖父は目をつぶって見ないふりをし続けてしまいました。「何言ってもだめだ」と諦めてしまったんですよね。目をつぶってしまうと、諦めてしまうと、社会全体の負の連鎖がずっと続いてしまいます。私はそういう状況を「仕方ない」と諦めたくないです。

私は幸いにも「それは違う」「その考え方はおかしいよ」と周囲の人が間違いを正してくれる環境にあったので、協力もあって「魔法の鏡」を手放すことが出来たように思います。もちろん、自分自身の「前向きな意欲」があることは大前提だとは思います。「自分は間違ってない」「自分は悪くない」の正当化は前向きどころか、過去に向かっていってしまってる状況に思います。


この「他者環境依存にさせる魔法の鏡」を手放すことはとても難しいですし、本人が自覚できないという状況がある限り、周囲や環境の協力なくして手放せないものかもしれません。しかし、現状の日本の「過剰に抑圧された縦社会」を形成し続けた結果が、「魔法の鏡」を大勢の人に持たせてしまった原因だと考えています。「一人一人が抑圧されず各々が楽しいことを追究できる環境」にするために、最終的には克服しなければならない難関だと感じています。



そうそう、「誰が認知がゆがんでいないかがそもそもわからない」という場合対象者が何に対して負の感情を感じているかである程度なら判別がつきます。例えば「女性が憎い」という発言は、女性全体を「同一視」「他者環境依存」で憎悪の対象に仕立てているので、認知がゆがんでいることになりますよね。逆に「理不尽で感情的なことばかり言うあの女性は嫌い」なら筋が通ってるし認知はゆがんでないと思います。合理的でない、筋が通らない、矛盾してる…言いがかりやこじつけなどは「盾」の悪影響だと考えています。

一部を全体とみなすレッテル貼りや白黒思考、一部だけ見て全体を決めつける絶対脳やすべき思考も「認知のゆがみ」に相当します。このあたりはネットに既にわかりやすい文献がありますので、そちらをご参照頂ければと思います。


というわけで長くなりましたが「自己尊重と感情の解放」はこれでおしまいになります。次は「等身大の自己像」について書…けるのか!?と思うところはありますが、マイペースに考察は続けたいと思います。おわり。







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