心に残っていること


 お盆を過ぎた頃、転院先は県北に位置する大きな総合病院でした。
脚を動かせないため、介護タクシーにストレッチャーでの移動です。
リハビリの方がたまに庭園に連れて行ってくれたことがありましたが、院内でのことなので外に出るのは2ヶ月ぶりぐらいのことでした。

2時間ほどでしょうか。タクシーの中で母に手を握られて到着するや否や事務の方が、
「〇〇病院へようこそ!!」と明るく歓迎してくれました。

綺麗な設備も整った大学病院にいた為、田舎の知らない土地のいかにも年季入った(失礼)病院に転院なんて…最初は憂鬱で仕方ありませんでした。
かくしてそこの整形外科で、約2ヶ月間の生活が始まりました。

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最初に主治医の先生にお会いした第一声は
「その高さから飛び降りて、よく命があったね」両親はその言葉に喜んでいましたが当の本人は完遂できないなんて、ヘマした。ぐらいにしか思えていません。命があってもまともに動けないので自分の身体のことなんてどこか投げやりでした。
そこから装具を作った後、サンダーバードみたいな機械でリハビリするからね〜と。

サンダーバード??
世代ではないのでわかりませんでした。

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名前はチルトテーブルという機械でベルトで身体を固定しながら最初は20°、40°、60…と徐々に傾斜をつけて立つ感覚を取り戻す機械です。数ヶ月間寝たきりの私にとって久しぶりに立つ光景は全く違う物でした。こんなに高い高さで物を見れていたのか、と。

 私の担当になった理学療法士さんとは偶然、歳も近く出身地も近所ということで沢山お話してくれました。
学生時代の話、昨日のテレビの話、鬼滅の刃の映画に親と行こうか迷ってるとか本当にたわいも無い話も、閉鎖された病院暮らしでは薬になるものです。

 私の左の膝は開放骨折しており、飛び降りた時は骨が飛び出でたらしいです。
そこは手術でもちろん補強はされていますが膝のお皿が硬くなっているため膝をなかなか曲げられず、毎日毎日世間話をしながら気を紛らわしてもらいつつグリグリと膝を曲げられこれがとても痛かった…

 私は飛び降りする前の移動手段はほとんど自転車だったので事前に自転車に乗れるようになりたいです。と、目標を言うと
「自転車や日常生活に支障がない動きができるのは120°の角度がつくようにしないとね」
 その頃の私はどれだけ頑張って加圧をかけても90°までしか足が曲がらずでそれに加えて30°も角度がいるのかと、ほんとに曲げれるのか!と、自転車なんて夢のような話でした。

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 明くる日、言語聴覚士の方のリハビリ中に
「地面が柔らかかったならまだしも、コンクリートにあの高さから飛び降りたこと、私たち(リハビリ担当)3人でよく生きてたねって話してるんだよ」と言われました。
 私はその時ハッと我に帰りました。
本当に自分は間抜けで幸せなやつというか、私にその話題を誰も持ち出さないから、てっきり事故にでもあったのかという認識なのかと思っていたのです。
 皆が私に配慮をしてあえてその話題を出さずに接してもらっていたことに申し訳なさを感じました。

「わたしも学生の頃、手首を切って自傷をしたことがある。あの時は本当に辛かったけれど、それでも生きていればいいことがあった。先は見えないかもしれないけど、あの時死なないで良かったって思える日がきっと来るよ」
漠然としていますが私はその言葉を聴いて少し生きる希望が湧いたのです。妙に響いて、忘れられません。とても優しい女性の方でした。

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 それから数日後、骨折箇所の踵についたビスを抜き、介助なしの自立の排泄の許可がおりました。
 車椅子で身障者用のトイレに行って、自分の脚で立って、自分で便器に用をたすというのは初めてチルトテーブルで立った時と、ここにきてから2度目の感動でした。
 オムツでするのは気持ちが悪いし、初めに書いたように恥ずかしさと罪悪感があったのです。もしも交通事故とかであれば割り切れたかもしれませんが、故意にやってしまった私にとってはこんな死にたがりの汚物を片付けるのに時間を奪うことに申し訳を感じていたのです。普通にトイレに行けることは普段では気づきませんがどこかでプロセスが欠ければ決してできません。


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 今思い返せばその病院はとてもホスピタリティに溢れていて、田舎特有の人情に触れることが多々ありました。そんな生活にも慣れてきた頃、夏から予定の立ててあった骨の移植の為に、もう一度大学病院に戻ることになりました。

 ちなみにこの時で圧をかけてもらうとなんとか100°ぐらいまで足が曲がるようになっていました。