小説「猫ちゃん印のコーヒー豆」
保護猫ちゃんが我が家にやってきて1週間が経つ。義弟の庭に迷い込んだ野良ちゃんが産んだ5匹中の2匹の子たちだ。3段式の大きなケージをを購入してリビングの窓際にセットした。人のいる時はケージを開ける。リビングと三階に続く階段が2人の遊び場だ。猫ちゃんたちとの初めての暮らし、わずか1週間で早くも世界の中心が変わってしまった。
私の朝はコーヒーと読書で始まる。
静けさの中で空間を独り占めすると世界が自分のものになる。どんな本でもこの時間の読書は密度が飛び抜けて濃い。
午前5時にリビングのドアをそっと開ける。じっとしながらも一番上段のハンモックから首をもたげた猫ちゃんたちと目が合う。そのまま通りすぎてキッチンにゆく。冷凍庫をなるべく音を立てずに引きあけコーヒー豆袋を静かに取り出す。ジップロックから計量スプーンで豆をすくい、手挽きコーヒーミルに投入する。
豆が一粒落ちた。乾いた軽い音がした。床を探す。コーヒー豆はラグビーボールのような形のせいかいつも突拍子もない場所まで転がってゆく。猫ちゃんが来てから床をきれいにしてる。子猫がなんでも口に含んじゃうからキケンだと愛猫諸先輩から聞いているので心配なのだ。ちゃんと見つけることができた。
漉し器に通した水をやかん入れてガスをつける。シュポ。コーヒーミルのハンドルを回す。この作業はどうしても大きな音がする。ガリガリガリ....。
がしゃん。リビングから音がする。ケージを覗く。すでに一番下の段まで降りた猫ちゃんが座ってじっとこちらを見る。あ、け、ろ。
キッチンに戻りコーヒーを淹れる作業を続ける。お気に入りのやちむんのマグカップに置いたハンドドリップと濾紙をセットして豆を入れ、お湯を少し注ぐ。コーヒー豆が膨らみ香りを放つ。この蒸らしの瞬間が好きだ。ミアオ。ま、だ、か?
250mlのお湯を上方から少しずつ垂らし、豆を回すように淹れる。大きなカップになみなみと入ったコーヒーをテーブルに運ぶ。座って一口ふくむ。今朝もうまい。ミアオ。文庫本を開く前に、ケージのドアを放つ。
すとん。軽やかにクミンくんが出てくる。するとそれに気づいたサフランちゃんが3段をジャンプしておりケージから出てくる。2人が朝の偵察を終えると、じゃれあいが始まる。朝からパワー全開バタバタだ。彼らの本気バトルにおける身体美を眺めるとこちらはもう読書どころじゃなくなる。2人はバトルに疲れると、テーブルに置いたコーヒーマグの匂いを嗅ぎにくる。これはダメですよ。熱いからね。お腹にもわるいよ。たぶん。
読書に戻っていいですか?でもこれまでとは異なり集中力は出てこない。小説世界に少し入れたと思っても今度は静かすぎることが気になってしまう。猫ちゃんたちどこいった?2人とも目の入るところにいてくれよ。1人でもいないと気になって階段なんかを探しちゃう。でもね、たいていは疲れて休んでるだけなんだよな、さんざん遊んだからね。ちょこんと座って頭を首まで沈めてる。
さあやっと読書タイムだ。と思いきや妻も起きてくる。空間の支配者の感覚は戻ってこない。もう人間の朝食作る時間だ。もうケージに戻りなさい。
昼下がりに帰宅し二階のリビングまでの階段をのぼり耳をそば立てる。静かだ。お昼寝かな。そっとドアを開ける。いつになくぐっすりと眠っている。雨の日はよく眠るってのはほんとなのかな。
午後のコーヒーを飲もう。
キッチンに行くと、冷凍するはずの真空パックコーヒー豆が見慣れぬガラス容器いっぱいに移されている。容器のデザインは良いのでキッチンにあっても見栄えがする。
いま我が家では猫ちゃんたちのためになるべく床に物を置かないキャンペーン実施中ゆえ、食材などの保管をコンパクトにすべく整理している。大きなコーヒー豆の袋をラック棚からどけたかったのであろう。冷凍庫はいっぱいだしね。
妻がせっかく工夫して保管場所を作ってくれたのだがコーヒー豆の品質が酸化劣化するのは嫌なので、以前から冷凍庫に保存してある豆の入ったジップロックに移すことにした。コーヒー豆を少しでも多く冷凍しておこうとガラス容器から計量スプーンですくい、何杯かジップロックに移した。
例のごとく何粒か床にこぼしてしまう。
猫ちゃんのいる今は床をきれいに保たなければいけない。
コーヒー豆を探す。
すぐに見つかった。
アレ?
アレレ?
形状が違う。円筒状だ。
ざらつきべとつく。
違和感。
イリュージョン。
ああああ、コーヒー豆じゃない!
猫ちゃんのエサだ!
おしゃれなガラス容器に入っているのはキャットフードだ!
今移したコーヒー豆袋から慌ててキャットフードをすくい出し、ガラス容器に戻す。
そのとき大変なことに気づく
オレの豆にエサが混じるのはしゃあない、でも猫ちゃんのエサにコーヒー豆が入ってたらお腹こわしちゃうじゃないか!
ガラス容器のキャットフードにコーヒー豆が混じり、ジップロックのコーヒー豆にキャットフードが混入している。まるで昔のツービート漫才ネタ状況である。
カレー味のウ○コか
ウ○コ味のカレーか区別がつかない状態。
ネコ味のコーヒー豆か
コーヒー味のキャットフードか
両方とも食べれるってのが救いだけれど。
コーヒー豆を掬おうとガラス容器にスプーンを突っ込むとさらに沈んで混じってゆく。アリ地獄だ。無力感。
てなことで皿で仕分けることにした。キャットフードがブレンドされたコーヒー豆をザラザラと皿に開け、目視でより分ける。指先を使ってていねいに。忍耐力のいる仕事だ。指が焦茶色に染まった。こんなことならコーヒー豆とキャットフードを分別するふるいを発明しよっかな。でも売れないな。
いや、もしかしてキャットフードの混じったコーヒー豆は旨いかもしれない。インドネシアのジャワには伝説の最高級コーヒー豆がある。コーヒーの熟れた実をジャコウ猫に食べさせて、胃の中で発酵させ、消化されずに糞と共に排泄されたコーヒー豆を糞から回収するのである。ファストフード化したグローバル社会における究極のスローフード、それが「コピ・ルアク」だ。まさに名前はKopi luwak =ジャコウネコ(luwak)・コーヒー(kopi)。
猫ちゃんたちに食べさせるのはリスクがあるので、やめておく。でも興味が出てきた。サルに食べさせるって方式もあるようだし、人間でやってみるか。でも食べてウンチはしんどいから、そのままコーヒーミルでグラインドして淹れてみる。
香りはわるくない。
柑橘系フレーバーに野性味が加わる。舌の奥で転がすと酸味に深さが加わり高級感がある。
こういうのをセレンディピティ(serendipity)という。偶然による幸運で大発見をしちゃうっとこと。
ニュートンが落ちるリンゴを見て万有引力発見したように、私は偶然の錯誤から究極のブレンドコーヒーを発見したのだ。コピ・ルアクほど製造工程もかからない。つまりコスパがグッド。ファストフード化時代の寵児になれるかもしれない。まずはお気に入りのマレーシア料理店に営業に行こう。そしてマレーシアやインドネシアの知り合いの華僑たちに営業権を付与しよう。いや待てよ、キャットフードに豚肉入ってないよな、ラードもダメだ。HALAL認証取れない。豚が入っていたらムスリムには売れないので華僑だけに売ろう。あまり儲けすぎると民族系から排斥されちゃうから、政治家にも手を回してね。成分配合比率はコンフィデンシャルとして、SDGsにかこつけたストーリーを組み立てブランドイメージを作る。エコな感じで。模倣品を防ぐために特許も取る。ロゴマークは「招き猫」だ。世界で売ってゆくためにはルイス・キャロルの「アリス」に出てくるチェシャー猫を使うのが良いかもな。grin.
この展開はまさに猫と暮らすと幸運がやってくるというアレか。こんなに早く幸運がやってくるとはな。
ん?もよおしてきた。コウウンだけじゃなくウンコかあ。カッコ笑い。そそくさとトイレに向かい便座にに座る。なかなか便が出ない。強くいきむ。やっとこさ排便できた。便器を覗く。やっぱりそうか。便器に敷いた砂の上にあるのは猫のようなコロコロウンチであった。フンをスコップですくい、消臭ビニール袋に入れる。トイレを出てリビングの床に座り大きく股を広げて、身体の硬さとたたかいつつ右足を頭より高く上げて首を下げて肛門を舌できれいに拭う。ミヤオ....。じっと肉球を見つめる。わずかに見える爪先は焦茶色に汚れている。
(了)