言葉のラビリンスを巡るエトセトラ
先日1/12に開催した対談イベント「言語からの応答 野間秀樹&辻野裕紀」は大好評であった。
この度、期間限定で動画アーカイブを購入できるようになったので、進行役兼読者代表質問者としてお二人の一番近くで聴いていた私が、この対談のエッセンスをチラリと紹介したい。
言語学者のお二人の含蓄あるお言葉を素人のおまえが紹介していいのかなんて声も聞こえてきそうだが、いいんです、言葉はそもそも伝わらないものなんだしね。人が受け取る言葉の意味は、その人なりの個人史を背負った、経験だとか知識をもっての捉えることしかできないのだから、私のセンサーに触れた言葉のカケラを紹介すれば、それでよいのだ。なんてさっそくお二人の言葉の受け売りをして上段に構えてみる。
そんな端々にすこしでもビビッときたら、アーカイブで対談の世界に浸ってみよう。
冒頭に、対談というものは、そもそも対位法的であると辻野さんは言った。話下手とか対談が苦手というが、会話は双方のコラボレーションであって、相互に干渉しあって深まってゆくもので、話がうまくゆかないことは自分だけの責任だと思うことはないのだと。のっけから希望あるお言葉。
「話し手は、話し手の意図を汲み取る聞き手に操舵されている」
観客もまた聞き手のうちであるから、その場を作る一員なのだ。てなことで私も横で「しっかりと」うなづく。
対談は、野間秀樹さんの個人史を振り返ることから始まった。幼い頃から全国を転々としたというが、転校生としてのあいさつがイヤだったという。
転居する場所ごとに言葉が違う。なにせ当地の呼称すらイントネーションが異なっている。
九州から北海道小樽に引っ越した秀樹少年は「オタル」を標準語式に「オ」にストレスをおいてあいさつした。ところがそれを聴いた小樽のクラスメイトたちは無邪気に爆笑する。そんな出来事が少年の身にはこたえるのだ。当地では「タ」を強く発音するのだという。オタルをホタルのように発音せずに、おサルのようの言う。こういうのはテキストで読むより動画を観るほうがよくわかるね。とステマを挟んでみる。(書いちゃったらステマじゃないけど)
少年時代漫画家目指したという野間くんは大きくなると芸術家になる。
イベントではさまざまなアート作品が映し出された。その中で私が気になったのはまだ日韓交流が自由でなかった1979年に、韓国アーティストたちと共同でソウルで展覧会を開いたことだ。民主化されていない軍事政権下にしかも日本から来た若者がアートをやった。なんと刺激的な。韓国サイドで参加した仲間は今も第一線で活躍しているという。
ところがそんな青年は、運命的に言語の道に入る。そのくだりは是非動画で。
そして近年、名著「ハングルの誕生」が登場する。
第二部は平凡社ライブラリーに入った「新版 ハングルの誕生」について語られた。
ハングルという文字を「知」の側面から解き明かした本書は韓国でも出版され、なんと3万部売れているそうだ。
なぜ日本で書かれたハングルについての本が韓国でも売れるのか?
ハングルは誕生したあとも、諺文(オンモン)とも呼ばれ軽んじられて、知と結びつけて語られることがなかった。朝鮮で知の言葉は漢字漢文であった。ハングルは15世紀にできたが19世紀まで政治文書はすべて漢文であった。ハングルは庶民の文字でしかなかったのだ。
ところが本書はハングルに「知からの切開」を行った。ここが新しい。詳しくは辻野さんによる巻末解説参照のこと。
ハングルの知について語られる書物がないと、知がないことになってしまう。それは事実と異なる。であればそれを言語化する。そんな強い意志で本書が生み出された。コトバが形にされれば、それはあることになる。言語の存在化機能という。(「言語 その希望に満ちたもの」にも言及あり)
知の側面を描いたことはハングルを使う朝鮮半島の人々にも勇気を与えたのだ。
ともかくハングル誕生した。その白熱のドラマは本書の記述にゆずるがその文字が現在まで生き残っていることの奇跡が語られた。世界には、作られた文字は無数にあった。砂漠に埋もれた文字もあった。
文字が作られることとその文字がテキストとなることとの間には「命懸けの飛躍」があるという。マルクスが使った言葉だそうだが覚えておきたい言葉だ。命懸けの飛躍=salto mortale
テキストになったとしても文字文化は儚いものだ。清朝で朝廷で使われた満洲文字は帝国と共に消え現代には生き残っていないのだ。
第三部は「言語 この希望に満ちたもの」
現代は言語パンデミックの時代といえる
時代と共に増え続ける言葉は現在さまざまなメディアを通じて拡散され、その量の爆発は人類史的な出来事だといえる。圧倒的な量が速度を持って押し寄せてくるのだ。野間さんによる手書きグラフがその凄まじい爆発を表した。グーテンベルクによる印刷の影響なんて現代と比べれば、ポップコーンが爆ぜてる程度だ。
一方で誰もが言葉を扱うようになり、読むようになり、聴くようになり、その中で難しい言葉の排除が行われつつあると辻野さんは嘆く。アカデミックな世界でも難解な言葉は修正を要請されることが多いという。あえてそうした言葉を頻用するという辻野さんは、こうした傾向は文学の否定であるし、むしろ読者への冒涜ではないか熱く語る。言葉は情報を伝えるだけの存在でなく、言葉の選択により質感を加えることができると。意味を伝えるだけの道具に貶めてはいけない。
野間さん応えて曰く、やさしくわかりやすい言葉を使うことが良いとか正しいなんて考えは間違えだ。いろんな言葉を使ってよいのだと。
対談は発展してゆき、歴史上の思想の伝来にまで話題にのぼった。キリスト教でも仏教でも世界中を伝播した思想や宗教があるが、それが「話された言葉」で伝わったのか、「書かれた言葉」で伝わったのか、はたまた「どんな文字」で伝わったか、表音文字なのか表意文字なのか、膠着語なのか、その区別が決定的に重要であり、伝わり方は大きく変わるという。
例えば仏教。仏教の開祖は釈迦だが、仏教の教えは、釈迦がああいった、こういったと伝わった。基本はサンスクリット語だから梵字で書かれた。梵字は表音文字だ。それが中国に入ると漢字になる。そして仏典は漢字で日本に入る。梵字は今も卒塔婆に書かれたりする。漢字になると意味が付加され質感が伴って伝わる。「佛」いう字は「人にあらず」という意味である。梵字にはその質感はない。
対談の最後は私が用意した質問コーナーだ。
①自動翻訳が発展著しいが自動翻訳できないコトバはどんなものか?
私はいろんな言葉を学習してるので是非とも聞きたかった質問だ。
多言語学習者にとっては本の題名のごとく、真に希望を見出せるお答えをいただいた。
②エスペラント語に今後の発展可能性があるか?
Google検索語ランキングでエスペラント語は第35位だとの驚きの記述があった。
答えを聞いてエスペラントへの興味がグッと高まった。
③お二人が薦めるコトバをめぐる小説をいくつか紹介してほしい。
対談以来、紹介いただいた本にどっぷり浸かってる。
以上