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歌の世界にまどろんで_貴州トン族を訪ねて

 厦格村(xiage)は山の上にあった。ここでは夕食まで時間がたっぷりある。侗族最大の村である肇兴(zhaoxing)の入り口で観光バスからバンに乗り換え、曲がりくねった山道を30分ほど進むと村のゲートが現れた。すでに村人たちが歓迎のために待っている。前に進み出たのはエリート然として髪を整えた背の高い男性だった。おそらく漢族だろう。午前中に訪れた黄岗(huanggang)村長とはずいぶんと佇まいが違う。27歳で黄岗村長に選ばれた彼は、侗族の衣装を着て朴訥な笑顔で村総出の結婚式準備を案内してくれた。別れ際には、我々のバスまで乗り込み、次は酒を一緒に飲もうなと送り出してくれた。侗族はお茶の代わりにお酒を飲む。米の蒸留酒だ。前日はランチに強めの酒が出され、夜まで頭に残った。さて、厦格村のかのエリートさんは滑らかな普通語で歓迎の意をあらわすと、民族衣装の女性たちを促して、歌を披露してくれた。我々を特別歓迎していることを強調するように何曲か追加で催促した。その後男性陣は竹製のサックスのような楽器で力が強い演奏をしてくれた。目一杯肺活量を使いゴルフスイングのように腰を決めて破裂音を出す。バホーン、バホーン。そのメンバーに村長も書記もいたのだった。村のトップが勢ぞろい。

 荷物を置いて村の自慢の棚田を見に出かけた。私はその前にトイレ休憩。入り口付近のトイレは故障中だとかで村の党本部まで坂道を登る。付き添ってくれたのはかのエリートさんの部下の青年だ。土産物民族衣装のような黒に金の刺繍が入ったベストを着ている。下はジーンズ。「君も侗族なの?」「いや、僕は貴陽から派遣されて来たんだ」貴陽は貴州省の省会(県庁所在地)だ。貧困対策活動を行っているという。「具体的に何やっているの?教育?」明確な答えはなかった。党本部前には10項目の貧困対策が記された看板があった。カネで貧困を測り、状態を定義し、心理的に追い詰めることになりはしないか?

 棚田に向かう小道に入り一行を追った。中国語では梯田titianという。ハシゴまたは階段状の田んぼ。少し行くと視界が一気に開ける一同が一面に広がる棚田に一斉にスマホやカメラを向ける。遠くに宿泊している肇兴が見える。米の収穫は終わっているが野菜を植えている畑もあり色とりどりのカーペットを敷いたようで素晴らしい眺めだ。水を張った田んぼには魚を飼っているそうだ。高台から麓まで見える限り続く棚田は最初に居ついた一族から数えて700年にわたりひとつひとつ開墾してきたという。歌いながら朗らかに耕したのだろう。棚田を案内にしてくれたのはこれまたエリートさんの部下である若い女性だった。"Do you speak English?"貴陽で大学に入り独学で英語を会得したという。観光客にアピールしたい村には貴重な人材なのだろう。とてもきれいな発音だ。現在では侗族の村でも英語学習が初等教育まで行き届いている。黄岗村では小学校も覗いてみたがちょうど英語の授業の真最中だった吉林省から来たという女性教師の声に続き、真っ赤な制服を着た女生徒たちがいっせいに英単語を繰り返す。Uncle! Uncle! Ouch! Ouch! 感情がこもったアウチ!がいい感じ。棚田に戻る。彼女はせっかく会得した英語が使いたい様子。一方私はせっかく中国にいるのだから中国語で会話したい。彼女から英語が出てくると頭のモードがうまく変換できずに混乱してしまう。でもまあどっちでもいいや。彼女がいう"You can see sunset from here."それは是非見てみたい。5時半に日が沈むというので後で戻ってこよう。

 棚田見学を終えると党本部で休憩兼質疑応答の時間が取られた。本部と言っても木造二階建ての質素なものだ。会議室にはソビエトの旗と入党の誓いが貼ってある。保守党的秘密。永不叛党。などなど。党の秘密を守ります。永遠に党を裏切りません。まさかこれ、われわれも読まされるわけじゃないだろうね。部屋の外には党幹部の写真入り組織図が貼ってある。果たしてかのエリートさんは村の共産党第一書記であった。村が所属する黎平県の副県長であったとういうのだから確かにエリートである。けっこう若いぞ。その下に歓迎の演奏をしてくれた書記と村長がいる。兰村長に嬴書記である。村長は村民選挙によって選ばれる。この地区は黔东南苗族侗族自治州に属す。村長が民族から選ばれることが自治の証しだという。書記は党員選挙で選ばれる。村の党員は38人だという。1921人の村で多いのか少ないのか?彼らはそれぞれ村を代表する一家から出ている。兰家と嬴家。侗族の部落では基本的にはひとつの姓の一族だけが住むという。結婚式の村は呉一族だった。その日は5組の式が行われ、新郎も新婦もみんな呉さん。祝儀記録帳を覗くと姓が書いてない。みんな呉だから書く必要がない。代わりに全ての名前の上に、侗語で父親を表す「甫」の文字が並ぶ。つまり太郎の父ちゃんがいくら出した、たかしの父ちゃんがいくら出したと記載してあるのだ。前日訪れた、立派な鼓楼で有名な増冲村には石さんばかり。「どこから来たんだい」と声をかけてくれたのは長く学校の先生をしていた石長老だった。この村の先生はもちろん石先生ばかりだ。愛称をつけて区別するようだ。その昔、侗族には姓がなかったという。姓がないとは皆を区別しないといこと。みんな家族だ。侗語には你好も谢谢もないという。家族間によそ行き言葉はいらない「不要客气!」と呉村長は笑った。

話を厦格に戻す。嬴書記は、兰村長の姓について「蓝」と書くと言った。音は同じlanである。組織表には兰とあるので間違えであるのだが、文字を持たなかった侗族にとっては音が大事であって漢字は自体は重要でないのかもしれない。つまりここでは漢字は単に表音文字になり下がる。先ほどの甫の文字も私の辞書に意味は載っていない。つまり表音文字。翌日訪れることになるビアオバー村には「芭扒」という漢字が当てられているが芭扒を普通語読みするとbabaとなるビアオbiaoの音は普通語には存在しない。baba村ではまるでバーバリアンじゃないか。つまり侗語は漢字の限界を超えている。侗族の歌声も到底漢字では表せない。口頭伝承しかないのだ。漢字では歌の民族について書けるが歌声については書けないといえる。

 さて質疑応答タイムの話。第一書記の仕切りで会は進み、侗族が歌う対象や歌うタイミング、季節ごとの行事などに話が及ぶ。嬴書記も奥さんと出会ったのは歌を通じてだったという。となり村とのイベントで彼女を見染めた書記は渾身の歌声で気持ちを伝えた。歌がうまいことは男の価値をあげるのだ。「自分の若い頃はいつでも歌っていたんだよ」伝統の歌は皆が共有しあらゆる場面で歌い継いできた。侗族の子供はしゃべりだすと同時に歌い出し、歩き出すとすぐに踊りだすと言われる。侗族は母系社会であり伝統を守るのは萨(sa)と呼ばれるお祖母さん。日本語で長老というと男性を想起するが女性はなんと呼んだらよいのか。侗族で1番盛大な季節行事はこの萨に尊敬の意を表すもの祭りだそうだ。最大家族の最長老が萨の座につき、村民の尊敬を一身にあつめる。萨のチカラの源泉について驚きの秘密を聞いたのはその翌日だった。侗族の村は人口男女比が歴史上、常に変わらないという。バースコントロールの鍵を握るのは萨が代々引き継いでいる民族秘伝の薬草だ。薬草を煎じつめて若い夫婦に処方する。すると産まれて来る子たちの性別は萨の意図通りとなる。産児制限政策に失敗して男子が多い異常なバランスを招いた中央も秘密を知りたがったが、萨は決して口を割らないという。ともかく超越した存在なのだ。

 「ところで第一書記さん、あなたも共産党からこの村に派遣された時、やはり萨に挨拶に行ったんですか?」

 「当然です。村の文化を尊重し村民を愛してこそ、我々も愛されるのです」

なにやらモードが変換されマニュアル通りの回答になった。

 「さあ皆さん、そろそろ疲れも癒えたでしょうから村をご案内致しましょう」

と第一書記はこの会を打ち切ってしまった。共産党に関する質問のタイミングが早かったかな。

 村を案内しながら嬴書記が村の歴史を話してくれた。嬴一族の先祖がまずこの地に居を定めたそうだが、流れ行くきっかけは時の勢力からの迫害。江西省から逃げて来たという。なにもない斜面を一から開墾し700年かけて壮大な景観を有する一面の棚田を作り上げた。今はこの風景を観光資源としたいようだ。第一書記と違って嬴書記は普通語が流暢ではない。子供のころは侗語だけで育ち、普通語は大人になってから習ったんだと少し恥ずかしそうに話す。楽器を吹いている時の勇猛な姿とは別人のようだ。ちなみに中国語の普通語をうまく話す人を褒める時、“你的中文很标准”という。君の中国語は標準的だねって。なんか嫌な響き。彼は一族の由来も語ってくれた。「我々は秦の始皇帝と繋がっているんだ」彼の姓は嬴。異様なほど難しい字だ。読みはying、イン。音をあらわすだけでそんなに難しい漢字を選ぶ必要もなかろうに。しかしこの姓には深い意図がある。秦の始皇帝の姓名は「嬴政」という。それゆえにこの字を使っているのだ。この地に着いた当時は別の姓を使っていたそうだが元の由緒正しき姓に戻したという。中国中央が強大になり言葉を教育とメディアで再統一しようとしている。さらには交通も便利になりこの山奥まで外国人に開放されている今、少数民族が秦の始皇帝との連なりをほこる。本家取り。メキシコグアダルーペの黒い聖母像を思い出してしまう。民族の文化を誇りつつも、中華思想の権化にすがる矛盾が、先住民文化を尊重しながら征服民族の持ち込んだカソリックの聖母に権威を求める姿と重なる。秦の始皇帝は中国を初めて統一した。度量衡と車軌の統一がその手段だった。車軌の統一は習近平が掲げる「交通強国」のスローガンにも通じる。なにせこうして我々も短い休暇を利用にして、新幹線で広州からわずか3時間半でとなりの県从江まで来られるのだ。以前にも列車はあったが17時間かかったという。ここに来る新幹線では偶然にも侗族のお母さんと隣り合わせた。彼女は娘5人を残して広州まで出稼ぎに行っている。年三回の帰郷の折だった。いわゆる農民戸籍の打工(賃労働者)だ。彼女自身は漢字を書けないし読めない。でもスマホで音声チャットを娘と楽しんでいた。SNS微信に故郷や自職場の動画を保存してあり、嬉しそうに見せてくれた。自らの生活に誇りを持っているのだろう。孫の写真も見せてくれた。これから駅で落ち合うという。5人の娘のうち、2人は医者、1人は先生、2人は賃労働者だという。賃労働者というのはつまり都会に出ているわけだ。村に来るのも便利になるが村から都会に出るのも容易になる。こうして村からは若者たちが流出するのだ。

 夕暮れ時に棚田に戻る。何百年も変わらない風景に夕日が沈む。遥か先まで棚田が見渡せる。少し離れた棚田では女性が1人野良仕事をしている。彼女の影のそばに一匹の犬がたわむれている。仕事を終えた彼女は天秤棒をさっと担いで、あぜ道をバランスよく歩き村に向かう。日が沈むと真っ暗になる。私じゃ灯りなしには帰れない。夕食に席に向かおう。「交通強国」が肥大する今、鉄道網が張り巡らされ、高速鉄道だけでも二万五千キロに達する。空前の国内旅行ブームに沸く中国でいつまでこの景観がいつまで保たれるのだろうか。先に開放された小黄村(xiaohuang)ではガイドさんに導かれたケバケバ原色セーターにサングラスのおばちゃんたちが、統一感のある質素な農藍色の民族衣装に銀の飾りをつけた村民たちを原色パワーで圧倒していた。この棚田には大勢の観光客が歩ける道はない。棚田の静かな緑が原色をまとった観光客で溢れるのはみたくない。

 夕食は共産党事務所前の広場で振舞われた。夕暮れ空に五星紅旗が翻っている。本部横の石には赤い文字で習近平の言葉が彫ってある。“立下愚公移山志,打赢脱贫攻坚战 习近平”(愚公が山を動かしたような志を打ち立て、脱貧困作戦に打ち勝とう 習近平) 君らは貧乏なのだから金持ちにならなきゃいけないとまず信じさせる。これが資本主義の来た道。愚公の逸話は、こつこつやってついには山を移してしまった故事にちなんでいるが、長年かけて棚田を作った彼らにうまくリンクしている。第一書記の目標は村を豊かにすること。先に開放した肇兴では通りも整備され観光客の宿泊施設もある。ポップスの流れるバーもある。大歌祭りが開かれる小黄村は近年開放されたが歌を求めて観光客が増え裕福になっている。この村も続いてゆきたいとガイドさんに抱負を語ったという。広場の奥にある住居前では子供たちがスピーカーで音楽かけて踊っている。普通語のポップスだ。踊りはみんなで揃ってまるで日本で一時流行ったパラパラのような感じだ。アメリカはロックンロールで世界を制したが、若い子たちには民族の旋律よりポップスの方が耳に心地いいのかな。

 広場には長机を並べて豚鍋や小皿料理が並べられる。お客さんを歓迎するための食事が用意された。いつの間にかあたりは真っ暗で、明かりは本部の街灯だけだ。宴はやはり村の女性の歌から始まった。贅沢なのは、参加者一人一人を順々に囲みつつ歌ってくれること。最後には米酒の一気呑みのサービスも付いている。長机では私は第一書記の正面に座ることになった。この際いろいろ聞いてみよう。

「第一書記はこの村にいつ派遣されたんですか?」

「很久很久以前来到这里的。ずっとずっと前に来たんだ」

「冗談はいいですから」

「実は3月に来たばかりなんだ」

「ずいぶん若く見えますがおいくつなんですか?」

「18歳だよ」

「またまたあ」

結局歳はわからない。見たところ40前かな

「ご結婚は?」

「18歳だからまだだよ」

ガイドの彭さんの言葉が思い出される。侗族では結婚して初めて一人前の男と認められるという。家族に対する責任が生じますからねと。例の27歳の村長にはすでに6歳の息子がいるそうだ。

「お若くてトップに立ったのですから未来の習近平ですね」

「習近平主席は国家の偉大な領導です。とてもとてもそこまでは」とは言いつつもまんざらでもない様子。

「まあともかく飲もう!」と第一書記は私の椀に米酒を並々注いだ。一気合戦の始まりだ。

ハイライ、ショーライ、ヘーイ、ソーブラ!

侗族の乾杯の掛け声だ。カタカナではとても表せないがとりあえず。

その後、ぞくぞくと飲み要員が一気飲みを仕掛けてくる。

「ほら、中国通、椀が空いてないぞ!」

私を中国通zhongguotongと呼ぶ第一書記。この言葉に素直に喜んではいけない。日中両国は複雑な関係の歴史を持つが近代では憎悪が目立つ場面が多かった。その中でも中国フリークは常にいた。中国側は親中分子を味方に引き入れるために、褒めそやす言葉の常套句として中国通と呼んだ。まあともかく私は中国に興味があるのは事実だが。

「中国通、今度は嬴書記と乾杯だ!他是非常能干的人!(彼はとてもできる男だよ)」

上から目線炸裂である。中央からみて政治的に優秀な人間だという意味である。その後もいろんな人を紹介されその都度飲む。中国の宴はいつもこうなるのだ。入れ替わり立ち替わり多数が乾杯を仕掛けてきて結局はゲストがつぶされる。乾杯は杯を乾かす。つまり一気飲みだ。まだ意識のある私は気づいた。第一書記書記の掛け声は元気がよいのだが杯を空けてない。

「さあ第一書記、まだ酒だ残っているぞ。カンパイだ!」

 宴もたけなわのころ、党本部のスピーカーから大音声が流れた。

村の衆に向けて、日本から大学教授御一行が訪れているのでみんなでお客さんを歓迎しようという意の放送であるとガイドの彭さんが教えてくれた。その後の記憶は酒のせいで曖昧だが村の鼓楼には村人たちが集まっており焚き火を囲んで盛大に歌で歓迎してくれた。侗族の村では鼓楼がもっとも大事な場所なのだ。村落に必ずある。そこで村の重要事が決められる。民族の歌がひと段落すると日本の歌でも紹介してくださいと声がかかった。日本代表として立ったのは旅に帯同していた歌手Kawoleさん。収穫を祝う日本の歌を美しい声で披露した。大喝采に続いてでたアンコールに答えた歌は、南米ケチュア語の歌。発声方法が違いさらに貴州に居ながらにしてさらに別の異国に連れてゆかれたようであった。音楽のチカラ。漢族代表はガイドの彭さんだった。定番曲「大海啊,故乡」を歌った。

大海啊大海,就像妈妈一样

走遍天涯海角 总在我的身旁

ふたたび民族の歌が続く、皆で手をつなぎ焚き火を何周も何周も回りながら次々と歌い手が変わりリフレインは止まらない。いい加減長すぎないか。歌の民族はとにかく歌が大好きで自分も歌わないと気が済まないらしい。彼女がマイクを握ったのなら私も是非と次から次と主張して終わらなくなってしまったのだ。マイク向けられて何を歌ったらよいかと逡巡して逃げてしまった私とは大違いだ。歌を忘れた民族は日本の歌をと請われて何を選べば良いのか?こちらは歌謡曲しか知らないしそれを日本の歌と呼んでいいのか?しかし考えるより先に歌えばよかったかと今頃後悔している。

 大喧騒を後にして宿に戻った。VIPホテルという英語名のついた宿はシンプルな木造三階建て。食堂横に小さなホールがあり、歌の現場から戻った姿のまま、日本からの訪問者が集まり、歌の旅についてのシンポジウムを開いた。録音機器がセットされ、車座になる。参加者を司会の管啓次郎さんが紹介する。各々が今回の旅の考察をシェアする。大学教授、デザイナー、詩人、歌手、装丁家、編集者、カメラマンなどに混じりサラリーマン代表として参加した私は自分の話を語り終えると、並々注がれた第一書記の米酒のおかげで、そのまままどろみ中に沈み込んでしまったのである。あまりにも刺激的なこの旅が夢の中の出来事でなかったことだけは確かなようだ。今度は歌う曲を用意して訪れたい。えいちゅう♪

以上


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