神に捧げたブルーカシミヤ
マフラーをなくした。
ブルーにグレーの細いストライプが入ったカシミヤだった。長年使っていたものに虫に喰われた小さな穴を見つけたので新しく買ったばかりだったのに。今思えばなくす予感はあったのだ。だって買った次の日にもう出先に置き忘れたんだから。でもビルを出てすぐに気づいた。外気は冷えるからね。
さて、なくしたのはあきらかなのだが、いつなくしたかがわからない。気づいたのはオフィスである。いつも掛けているデスク椅子の背もたれにないのだ?共有ロッカーにコートと一緒に入れちゃったのか?なかった。そもそも家においてきたのかもしれない。妻にLINEするのはやめておいた。だって前週も長財布を家に忘れたから。うっかり八兵衛ほど可愛くないし。
帰宅して部屋にないことがわかると捜索を始めた。まずは記憶をたどる。前日の夜はフランス語レッスン。どこで食事したっけ?午後はどこに外出した?昼飯は何食べた?午前中は?
フランス語先生は、その日私はマフラーはしていなかったと返信をくれた。では食事したラーメン店だな。確か会計後にトイレにも行った。その時席に忘れたか?店をググり電話したが中国人バイトワンオペのその店は何度鳴らしても出ない。翌日は土曜日だったので店まで出向いた。ない。さあ、しらみつぶしだ。洋食屋、鰻屋、カレー屋、飲み屋、学校、オフィスビル、タクシー会社...3日遡って記憶から絞り出した。どこにもない。マフラーなくして3日気づかないなんてことはないはずだが、もう意地になってる。
念のため駅にも行ってみるか。電車でマフラーは取らないが、酔っ払って落としたかもしれない。ターミナル駅の忘れもの受付で尋ねると駅員さんが言った。
「マフラーの忘れものは多いんですよね。青いマフラーもいくつもあります。ただこの駅にはありません。保管している駅に行って実際に見てみてください」
少しの希望を抱き出向いた。重い扉を開けて受付をする。するとすぐに別のお兄さんが入ってきた。
「グレーのマフラーを忘れました」
親しみが沸いたので声をかけた。
「お兄さん、私たち仲間ですね。僕もマフラーです」
「そうですか。でも私のは出てきたんですよ。だから受け取りに来たのです」
寂しいじゃないかブラザー。オレはひとりぼっちか。すると検索した駅員が該当候補を見つけてビニールに入った青いマフラーを二つ持ってきた。わかってるよ、オレのじゃないだろ、見る前からあきらめてる。出てくる流れじゃない。
ディープリーブルーな気分が続く。ずっとざわざわする。川に落として流れて消えたとか、何かに引っかけて破れたなんてほうがすっきりする。だってさ、マフラーなんか外すところは限られてるし、普通落ちてるマフラーを自分のものにしないでしょ普通?見つかるだろ。ファンに取られたかなあ?妄想はおいておいて、捜索は完全に手詰まり。あとは外出先で入ったトイレだな。思い出せない。スタバか、本屋か。無理だ。
モヤモヤしたまま週明けから海外出張に出掛けた。肌寒い早朝に空港までは古いマフラーを着けて行った。肌触りが全然違う。このまま見つからないとこのマフラーをするたび嫌な思いが蘇りそうだ。
でも見つけるとっておきの方法があるんだよね。
その技を使っちゃおうかな。それは新しいのをもう一つ買うっていうこと。いわゆるマーフィーの法則ってやつ。
帰国便の長いフライトで考えた。翌週も嫌な気分を引きずりたくない。空港から帰宅の途につく際も古いマフラーしたくない。てなことで機内販売を生まれて初めて利用してマフラーを仕入れたのだ。
ふふふふふ。法則は生きていた。
僕のブルーのハニーは会社の共有ロッカーの片隅で小さくなってオレを待っていたのだ。うれしいのかうれしくないのか。君も大切にするよ。でもさ、わかっているんだよ。これから暖かくなるんでしょ、いじわるなお天道さま?
ん?
お天道さまの眼球の奥が鈍い光を発している。
暑い。マフラーをした首がとにかく暑い。もはや暑いを通り越して熱いの域に入った。お天道さまは怒っている。人間の所業の果てに地球を枯らしておいて、2つ目のマフラーを買ったからといって寒さが続けだと?ウソです。ウソです。軽口たたきました。すみません。慌てて謝るもお天道さまの顔は赤みを増してみるみるうちに赤黒い凄みを帯びてきた。気づくと髪まで逆立ち、それは色めきつつ光を放つ巨大な羽根飾りのようだ。インディアンの酋長かよ。いやこの威厳は人間界のものでない、アステカの太陽神ウィツィロポチトリに違いない。暑さにかまけて気付かなかったがオレは全裸で神輿に縛られて全身黒い刺青の八瀬童子に担がれている。オレは真っ裸なのに首だけマフラーが巻かれている。せっかくのカシミヤもこうも暑いと苦痛でしかない。しかし暑さなんかよりもこの不可思議な状況の方がよほど深刻である。地響きのような太鼓が聴こえる。神輿にも振動が伝わる。原始のリズムに高揚感は高まる。ドラム音にベース音が重なる。首をもたげて周囲を窺うと四方には無数の人々が群らがって一心不乱に祈りを捧げている。群衆の視線のはるか先には高台にしつらえた祭壇が見える。つまりオレは太陽神の怒りを鎮める生贄ということか。神輿はゆっくり進む。
ちょっと皆さん待ってください。なんでこのオレが選ばれなきゃいけないの?マフラーなくしたから?オレはコンキスタドール、コルテスの仲間じゃないよ。碧眼でもないし、ほら見てよ、肌色はちょっと薄いけどむしろ君らに似てるでしょ?ケッツァルコルトルの化身だなんて騙って皇帝モクテスマを操ってもいないし、一つの神ゼウスを信じてる破壊者でもないよ。君らと同じく八百万の神を慕う東方から来た自然を愛する男なんだよ。聞いてるのかよおおおお!
なんて叫んだところで通じるわけはない。ナワトル語はチンプンカンプンだし、コルテスのように現地妻マリンチェに通訳してもらうこともできない。神輿は篝火の燃える祭壇へゆっくり近づいてゆく。平凡な人生にこんな終わりが来るとはね。載せられて神輿はどんどん高みに上がってゆく。周囲にはメラメラを燃える松明、暑い、暑い、熱い。縛られた身体はもがくのが精一杯だ。高く高く進む。浮遊感に気づく。自分と神輿だけが宙に浮いている。高く高く。ドラムビートが遠くなる。下方に視線向ける。祭壇を取り巻く群衆がまだ見える。彼らが立つ大地は島がだった。静かな水に浮かんでいる。島の周囲には巨大な船が幾槽も舫でいる。いや海じゃない。湖だ。大地が見える。高地にある広大な湖だ。宮殿も見える。しかし彼方の大地は枯れているのか岩肌だらけだ。太陽神の怒りに違いない。高度はますます上がる。空気はどんどん薄くなる。目を瞑る。ダメだ。眠ったら最後だ。戻れない。渾身のチカラをこめてかっと目を開く。
暗い静寂がある。どうやらここは飛行機のキャビンのようだ。シートベルトをしっかり締めた身体は真っ暗な中に読書灯に照らされている。いつの間にか眠ってしまったのだ。地球の裏への短い旅でジェットラグを引きずり体内時計はめちゃくちゃだ。出しっぱなしのシートテーブルには黄色い表紙の単行本がひとつおいてある。タイトルは「メキシコの夢」 « Le Rêve Mexicain »
プーん。音とともにキャビンの灯りが徐々についてゆく。
「当機は間もなく羽田東京国際空港に到着いたします」
乗客たちも眠りから覚めてかすかに動き出す。
いったいどこからが夢だったんだ?ふと気づく。なぜか機内なのにマフラーをしている。マフラーからは焦げた匂いに混じりアステカの薬草の香りがした。次の瞬間、再度まどろみに沈んだ。
“La realidad está equivocada, los sueños son realidad.”
Tupac Shakur
「現実は間違っている。夢こそがリアルだ」Tupac
了。