なぜ着せ替えデイトは普及しないのか?
こんばんは!!またぎりぎりになって課題を提出するよ。
結論から述べるとそれは「着せ替えデートは怖い」からだよ。
なぜ怖いのか、続きの文章で考察してみました!!!
さて、今回は脱輪氏のこの「叫び」もしくは「ささやき」に言及していこうと思う。
まず、服装についての個人的な解釈を述べよう。服装は、社会的で、身近な自己表現の方法である。
相手にに服を選んでもらうという行為は、相手に「自分がどのような人間である」かということを表現してもらうということにつながる。
それはある意味、暴力的で個人的には恐ろしい事だ。また、相手に身をゆだね、自分の解釈を服装に落とし込んでもらうということでもある。
「私はあなたのことをこの服装を通して表現します。」
「私はあなたに、この服装のような人物であってほしいと考えています。」「あなたはこのようにありなさい!!」
「あなたはこのようでなければならない!!」
「これがおまえ!!!」
とも受け取れる。
それは怖い。
服装を通してのメッセージは多岐にわたる。例えば制服には「学生らしく、勤勉であること」が求められ。ウエディングドレスには「結婚する身であるのだから、清廉潔白であること」がコンセプトになっている。私はそれらの枠組みから外れたいと願ってきた。
多分それは性格のせいもあるが、「誰かによって自分が定義されることに対しての嫌悪感」があるということだと思う。それが、文章を書いていてよく分かった。
脱輪氏の着せ替えデートを楽しむ器には残念ながらなれない。
ただ、恋人もしくは恋人のように信頼している人には、服を選んでもらうという行為をしてもらいたいと思うかもしれないとは思う。
いわゆるその人の色に染まるということだ。
でもそれでも抵抗感がある。
こだわりはかなり強いほうだからなのかもしれない。
なるべく規定されない限りは、少しでも動けるときに自分の好きな動きを迷惑にならない程度にして居たいと、最近とても強く思う。
それは足首や手首をまわす事だったり。首を軽く振ることであったり。手の指を細かく動かすことであったりする。その動きをしないと、(特にバイト中)誰かに浸食されているような気がするのだ。
脱輪氏がいうように着せ替えデートは一見楽しそうに思われるが、意外とそのようなデートが行われてこなかったのには、先ほど述べた通り「誰かによって自分が定義されることに対しての嫌悪感」があるという人が多いからなのではないかと推測した。
そこから他人の色に染まるという行為が何なりとできてしまうのは、モデルやアイドル、役者などの特殊技術であるとも考えられる。
彼らの表に出ない凄みの一つであるだろう。自我を一時的に放棄しているともいえる。だから彼らの仕事に賃金が発生するのだろう。
なぜ着せ替えデイトが普及しないのか。それは自我が浸食されているように感じるから、なのかもしれない。
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