文章を書く意味についての話

当然なのだが、私がtwitterやnoteに何らかの文章を投稿しても、私の懐に金が入ってくる訳ではない。
では金ではない別の価値が得られるのかといえば、それも違う。
それどころか貴重な時間を費やして投稿内容を考え、文章を練り、キーボードを叩きつつ文章を推敲しているのだから、それはもう無駄である。
そして私はその無駄な行為をもう何年と続けているのだから、これはもう無駄の極みである。

一体何故、斯様な無益な行為を繰り返しているのか。
自身の考えを誰かに伝えるため?
自身の考えを記録するため?
正直な所、自分でも確固たる理由を持っている訳ではない。
なんとなく初めて、なんとなく続けているだけなのだ。

だが、無理やり言語化するならば精神的排泄行為が近いかもしれない。

残念ながら私は一般的な人間であるので、日々感情抱き生きている。
日々感情を喰らい、その心象を精神的な糧として今まで生きてきたのだが、やはりその全てを昇華/消化することは私には出来ない。
どうしても不純物‥‥‥これも無理やり言語化するならば、もやもやとした気持ちが残ってしまうのだ。

他人が一体どういう感想を抱いているのか。
純粋な喜びや怒り。
あるいは、他人にも勧めたい気持ち。
即ち、愛。

そういう絞りカスを頭の中で圧縮したもの、それこそが私の書く文章である。

つまるところ、この文もまた精神的排泄物、つまりうんこである。
私のtwitterやnoteのアカウントは便器で、インターネットの海へと流すための手段でしかない。

最期に、謝らせてほしい。
ここまで私のひねり出した怪文書を見てくれた人の中には、怒りを覚えた人がいると思う。
文章を書くという人間のみに許された神聖な行為を排泄行動に例えるなど何事か、と。
確かにその通りなのだ。
だが、そういう側面があるのもまた事実。
私は筆舌に尽くし難いほどの不器用な男だが、その行為に愛があるのは揺るがない事実なのだ。

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