自分自身と、中華人民共和国という国との関係性について、留学を終えたいま思うこと。

自分自身と、中華人民共和国という国との関係性に、ずっと、ささやかな違和感がある。

イデオロギーも社会の構造も、何もかもが違う、近くて遠い隣国。そして、自分自身のルーツでもある場所。

物心ついてからというもの、中国はそういう特殊な場所として、常に自分のそばに存在してきた。

高校に入って中国語の勉強を始めてから、その存在はさらに身近なものになった。もともと漢字とか英語とか、言葉というものが好きだったし、ちょっと才能もあった。中国語や、中国が好きだった。曲がりなりにも6年くらい勉強を続けて、中国に留学もした。

中国語を勉強している理由や、中国に留学をした理由を聞かれた時には「自分自身のルーツがあるからと勉強するうちに、文化的には近い部分もあるのに政治的・社会的には日本と全然違う中国という国そのものに興味を持ったんだ」なんて一丁前に答えてみたりもする。

けれど最近、ずっと心に引っかかっていることがある。

自分自身の中国に対する視線は、オリエンタリズムにほかならないのではないか、と。

もちろん中国という国は大好きで、愛着もある。中国語だってすごく美しい言語だと思う。

それでも、自分がいう「好き」は、中国の政治や社会、そしてなにより中国に暮らす人々を、「面白いコンテンツ」として消費しているだけではないのか、という気がしてならない。

ぼくらは、政治的な宣伝だとか人民の行動だとか、中国の持つ日本と異なる一面を見ては「ハオ」だなんだと騒ぎ立てる。異質さや新鮮さに興味を見出すのは人間の性だと思うし、当事者の一人としてそれは痛いほどわかる。

自分自身、これまで生まれ育ってきたのは日本だし、日本人としてのアイデンティティもそれなりにある。いくら中国にルーツがあって常に身近な存在だったとはいえ、自分にとっては中国とは、あくまでも「外」の存在であり続けている。

そう考えると、今の自分は、外国人として一歩距離を置いて、異質で面白い部分だけを表面的に受容しているだけで、その「好き」は歪で不誠実なものではないか。と、最近そう考えている。

それが良いことなのか悪いことなのかも分からないし、果たしてどんな姿勢で向き合うのが正解なのかも分からないけれど、「お客様」として暮らした1年間の留学から帰ってきたいま、そんなことを感じ、悩んでいる。

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