【コラム】長崎と原爆
■2024年8月9日から1945年8月9日へ
先日、長崎を訪れ、長崎原爆資料館を見学してきました。館内では約2時間を過ごし、戦争の悲劇とその影響を学び、深く考えました。永井隆さんの著書『長崎の鐘』を手に取り、その場で購入しました。帰りの飛行機でページをめくりながら、長崎の歴史と平和への祈りを再認識したひと時となりました。
資料館を出た後、原子爆弾落下中心地碑に足を運びました。そこでは、蝉たちがまるで当時亡くなった73,884人の無念を嘆くかのように鳴いていました。自然と耳に届くその音は、過去の記憶と今を結びつけるかのように感じられました。
さらに、平和の泉と平和祈念像にも訪れました。平和祈念像の前では、猛暑の中、地元の名物であるチリンチリンアイスを味わいながら、その場に立ち止まり、平和について深く考えるひと時となりました。
長崎の地で感じたこと、見たことは、心に深く刻まれました。これからも平和について真剣に考え、その思いを大切にしていきたいと強く感じています。また、教育の現場でもより深くこの問題に入り込み、自分だけではなく、どうしたら平和な世界を実現出来るか考える必要があると感じました。改めてになりますが、当時のことを少しまとめ、考えを述べたいと思います。
■何が起きたか
1945年8月9日11時2分、米国は第二次世界大戦中に長崎へ原子爆弾を投下しました。これは人類史上で2回目の核兵器使用であり、広島への原爆投下からわずか3日後のことでした。爆弾は「ファットマン」と呼ばれるプルトニウム型爆弾で、長崎市の浦上地区に投下されました。この攻撃により、長崎は壊滅的な被害を受けました。
原爆によってすぐ亡くなられた方は73,884人とされていますが、この中には、日本人だけでなく、数多くの外国人も含まれていました。当時の長崎には、海外との窓口としての歴史的な背景があり、多くの外国人が住んでいました。特に、オランダやポルトガルの商人、そしてキリスト教の宣教師たちが長崎を拠点に活動していました。長崎は16世紀から外国との貿易が行われ、特にキリスト教の布教活動の中心地となっていました。九州は日本におけるキリスト教の伝来と布教の重要な入口であり、長崎には多くの教会やキリスト教徒のコミュニティが存在していたため、戦時中も多くの外国人が残っていました。
長崎が原爆の標的となった理由は、戦略的および軍事的要因が絡んでいます。当初、原爆の第2の標的は小倉(現在の北九州市)とされていましたが、8月9日当日は天候不良や煙幕によって視界が悪く、投下が困難でした。そのため、予備目標としてリストにあった長崎が選ばれました。
長崎は当時、日本の重要な工業都市の一つであり、造船業や兵器製造において重要な役割を果たしていました。特に、三菱重工業の造船所や兵器工場が集まっていたため、軍事的なターゲットとして選ばれたのです。また、地形的に山に囲まれているため、爆風の効果を最大化することができると考えられていました。
当時の生々しい状況については冒頭で触れた永井隆さんの長崎の鐘を読んで頂ければと思います。
また、それと同時に消された内容があることを学んで欲しいです。
■岸田総理と広島
岸田総理は生まれは東京ですが、広島出身ですね。岸田総理が無能だと、SNSで誹謗中傷されているのをよく見ますが、私は違う意見です。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/ms/g7hs_s/page1_001721.html
G7を広島で開催した意味を深く考える必要があります。とても勇気がいる行為だったと思います。核兵器のない世界の実現を真剣に目指して取り組まれている姿は尊敬に値します。
現代人は大切な時間をとても狭いSNS空間で浪費しており、過剰な反応や誹謗を楽しんでいます。SNS運営側が過剰な反応を起こした人に対し報酬を与え、それを見ている人が炎上やばずっていることを楽しんでいる構図は無限ループになっており、そこから抜出すことが大変になっています。それよりも、協調が発生する場所で時間を使っていくこと、平和について対話する機会が必要ではないかと思います。戦争や小さなSNS上の争いも、元を辿れば自身の欲望を自制出来ない本質から来ていると感じます。
平和な世界実現の為、出来ることを一つずつしていきたいです。