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米本位制への回帰

〈2025/01/26 投稿の改正版〉

資本主義は無限の生産と消費を想定する。デフレやインフレといった言葉はあるが、それは貨幣と物資の流通のバランスを言い表すためのものだ。対して自然は無限ではない。無限ではないものが、いまだに無限の発展を前提に元本にされている。

ここからは妄想。


自然と共存共栄を目指すなら、デフレやインフレの他、もう一つ自然と社会とのバランスを測る概念を取り入れなければならない。しかし全自然の状態を推し測ることは普通不可能、悪魔の証明だ。バカボン流(山田貢司さんという方が提唱されている新しい科学の枠組み)の周期という発想なら、あるいは可能かもしれないが。

思いつきで言えば、米本位制を一部復活させる。
何を時代遅れなことをと思うが、米の量ならその土地の人々が近い将来どのくらい食べていけるか、その生活や生産を含めた国力を石高とかいった値で予測することができる。税の一部は年貢で納めるのもありだし、通貨は市場に流した米の量だけ米生産証みたいなものを発行する。一年の最後に年末調節をやって、次年度の米価に反映させる。
今の日本の米の自給率はほぼ100%らしいが、値上がりの件は最近ニュースになっていた通り。外国に輸出されているという情報を見てさすがに馬鹿馬鹿しいと思うけれど、ともあれ米の価格の変動は僕たちの生活に影響を及ぼす。食べていけることは、すなわち生きていけること。
元本を有限のものにしようという点では金本位制もあるが、金は掘ってなくなればそれまで。価値が高すぎるし、消費できない。永遠に価値を持ち続けてしまうところが無限の発展を連想させる。金本位に続く管理通貨制度も同じだ。これには本位する物質がそもそもない。日本なら日本銀行という信用だけ。つまり人の想像上の約束事だ。金本位制や管理通貨制だけでは自然の状態を置き去りにしてしまう。
だからこそ、それらに米本位も加えれば土地に根ざし、かつ土地の自然状態と経済の関係を固く結びつけておくことができるのではないか(ちなみに野菜価、魚価、肉価など、食べ物に応じて相場を作ってみても、そこに先物取引のようなものを作れないか。金や銀が先物として選ばれるのはその保存と流通の利便性にある。対して収穫物の場合は保存も流通も難しいので、あくまで生産量の予測としての先物)。食べ物があるから社会が維持できるなら、その構図はいたってシンプルだ。社会の維持、人々が食うに困らない土地と人は自給できた方がいい。
そしてこの国の人全員がそうすべきということではない。今の都市集中型から離れて地方へ離れる人を中心にやる、村社会型の経済。そこで江戸時代にやっていたような米と貨幣の、通貨としての両立ができないものか。
江戸は260年続いたという。現在は明治時代からおよそ160年経っているらしい。江戸より短い年月の流れで、めまぐるしい発展と衰退、戦争があった。発展と維持の両建てができるなら、未来はまだ良くなる可能性がある。
そろそろ動きたくてうずうずしている。でも、まだ準備が整っていない。今はまだ、お金に頼らざるをえない。ただのバイト、フリーターだ。だからこれは想像に過ぎないこと。口だけのこと。書いてることは荒く問題点も多いと思う。
そもそも食料自給率なんて問題なくて、最近食糧難が起こったときのための配給制の法律が作られようとしているのも、この調子で日本の自給率を下げて戦争が必要な状態にしたいのかとか、そんな疑問は僕の思い込みで、杞憂に過ぎないのかもしれない。わからない。何が本当なのか、いまだにはっきりとはしない。生活は特に問題なく、これからも滞りなく進んでいくのかもしれない。だから、これは単に好きで考えていること。単にやりたいことと言い聞かせる。あるいは新しい時代へ突入していくなか、自分がただ情報の受け手になるのではなく、主体的に未来を作ろうと鼓舞するための、ささやかな希望。

おわり

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