見出し画像

妻と豆柴が教えてくれた、お金のあたたかい使い方

昔はずっと貧乏だった。

学生の頃なんて、まともに外食もしないし、お菓子だってめったに買えない。ペットボトルや缶ジュースすら買った記憶がない。

友達がカラオケに誘ってくれても、二次会に流れ込もうとしても、財布の中には乾いた空気しか入っていない。

帰り道、夜の街を一人で歩きながら「まあ、こういうものだよな」と、ぼそっとつぶやく癖がいつの間にかついていた。

社会人になっても、それはあまり変わらなかった。

料理ができないので、卵かけ納豆ご飯やレトルトのカレーや親子丼で腹を満たし、手取り15万円くらいでかろうじて日々を回していた。

そもそも、お金に興味がなかったんだと思う。

あればいいのかもしれないけれど、使い道がわからない。

貯めてもどうせ、どこへ流せばいいのかわからなかった。

会社員でいるのが嫌で嫌で、副業で中古DVDやゲームを仕入れてはAmazonへ流し、本やコンテンツを拾っては学ぼうとしたけれど、うまくいかない。

全然儲からないし、通帳が10万円を超えることすらなかった。

でも当時はそれでよかった。

「持ってても仕方ないし」と本気で思っていた。
会社には高圧的な上司がいて、パワハラじみた言葉を日常的に浴びせられ、眠れない夜もあった。

「このままじゃダメだろう」と焦るほど、副業に縋る日々。

結局お金は増えないまま溶けていく。

28歳でトレーナーに転職したとき、状況が少し変わった。

店長になって本業のために時間を使うようになるといつの間にかお金が貯まるようになった。

「こんな簡単なことだったのか」と、拍子抜けするくらいだった。

学生時代から本はよく読むが、この頃も年間150〜200冊くらい本を読んでいた。

それにKindle Unlimitedで月980円払えば、だいたいの読書欲は満たせるし、文学から実用書までずいぶん気軽に手に入る。

独立してひとり社長になった今は、ビジネス書を買っても経費で落ちる。

本当に必要な知識を仕入れていると、出費が出費に見えなくなるのがおもしろい。

それでも、自分自身にはほとんどお金を使わない。

お金を使う先は、妻や豆柴のためのプレゼントくらいだ。

妻は、高くても安くても、何かを渡せば嬉しそうに笑う。

気のせいか、高いもののほうが笑顔が弾ける気もするけれど、それはそれでいい。

妻が欲しいと言うから豆柴を飼い、車も持った。
いずれは家も買うつもりだ。

本当は賃貸でもいいのだけれど、妻が望むなら買ってやろうか、と自然に思える程度にはお金に役割が宿った。

自分が何か欲しいと思うことはあまりない。

でも、妻が満足そうにしている様子が、なぜか心に余裕をくれる。

昔は貧乏に慣れきっていて、それなりにやっていけたし、別に困ることもなかったけれど、今は妻と豆柴がいて、家を買う話が当たり前のように行き交う。

多分、僕はお金そのものを求めていたわけじゃない。

必要としてくれる存在がいるから、お金を使う理由が生まれた。

もし一人だったら、相変わらず卵かけ納豆ご飯で済ませ、貯金もなく、それはそれで悪くなかったろう。

けれど今は、妻と豆柴がいて、小さな笑顔と尻尾が家の空気を揺らしている。

贅沢はしないけれど、そこに流れるお金は、どこか安心できる温度を持っている。

結局、お金の使い道は人が運んでくる。

最初からお金に意味はなかった。

だけど、今は妻が笑って、犬が跳ねる。

その光景こそが、ようやくお金を動かす理由になった。

それだけのことだ。


おすすめ記事

いいなと思ったら応援しよう!