「葬送のフリーレン」の感想文
こんにちは。今回は、アニメの「葬送のフリーレン」の感想を書いていこうと思います。(セリフを引用していますが、全て記憶を頼りにしているのでところどころ間違っているかもしれません。)
2本目は読書感想文ではなく、アニメの感想になってしまいました。笑
ちなみに、マンガは読めていないので、アニメを見た限りでの感想になります。
このアニメは、いろんなテーマが散りばめられているので、この記事では僕の心に残ったテーマ一つに限って書いていこうと思います。
それは、「遊びとは何か?」というテーマです。
皆さんは、遊びとは何かという問いに対して、どのように答えるでしょうか。まあ人によって、趣味とか、暇な時にすることとか、休日にする楽しいこととか、色々あると思います。
僕は、この問いに対する答えの一つが、「葬送のフリーレン」というアニメだったと思います。
遊びというのは、劣等感から解放された人間だけが本気になれる心を豊かにする行為なのです。
このアニメで遊んでいたのは、フリーレンとその弟子のフェルンです。
この二人に共通しているのは、「魔法は好きか」と問われたときに、「ほどほどかな」と答えるところです。
他の魔法使いたちは、魔法を何かの道具とみなしています。
フリーレンの対極にいる魔法使いは、ゼーリエです。
ゼーリエは、魔法による強さの獲得を目指して、才能がある魔法使いを見出しては弟子にして育ててきました。
そして、自分自身はその頂点に君臨するために、人間たちが魔法を使うようになる時代の到来など全く望んでいませんでした。
しかし、そのゼーリエの弟子のフランメは、フリーレンを弟子にします。
フランメが好きだった魔法は、「お花畑を出す魔法」でした。当然ゼーリエはくだらないといいました。笑
そして、フランメは死期が近づいたとき、弟子のフリーリンに対して私の墓の周りに花を植えてくれといいます。魔法を好きになるきっかけだったといいました。
そのとき、思い返すように、「私はお前に戦いのことしか教えなかったな」とフリーレンに対して語りかけます。そして、フリーレンが「お花畑を出す魔法」を教えてくれと頼んで、その魔法が継承されました。
それからフリーレンは、「趣味だからね」と言って、魔法収集の旅を続けます。
フェルンはどうだったかというと、彼女は生き抜く術として魔法使いの道を選びました。これも重要な点だと思います。
憧れがあって魔法使いになるのではなく、生き抜く術として魔法使いになったのです。
そんな彼女は、一流の魔法使いになり、その道で生活ができるようになるとフリーレンと同じように魔法を楽しむようになります。
フェルンに魔法を教えるかどうか決めるとき、フリーレンが問いかけた言葉は、「魔法は好き?」というものでした。それに対してフェルンは、「ほどほどでございます」と答えました。フリーレンは少し笑い、「私の同じだ」と言って魔法を教え始めました。
このやりとりが、師弟関係が結ばれた瞬間だったのではないかと思います。
「遊び」は、豊かな心を持つ人が初めて本気になれるものです。
最初は遊びのつもりだったのに、多くの人は熱中してその世界に入り込めば入り込むほど、人と自分とを比べて遊びではなく真面目になってしまいます。
真面目になったら、それは遊びではないですよね。
フランメ、フリーレン、フェルンという師弟関係の流れで受け継がれているのは、魔法の実力もさることながら、遊びとしての魔法なのです。
フェルンがゼーリエから一級魔法使いの特権として授与してもらったのが「服を綺麗にする魔法」だったとき、フリーレンは「それでこそ私の弟子だ」といいました。きちんと思想は受け継がれていたのですね。
ところで、この物語は旅をテーマにしていますが、旅は人生とのアナロジーになっていると思います。
作者の山田鐘人さんは、人生観を提示していると言えるでしょう。その人生観は、僕が勝手に読み取った限りでは、「人生は遊びにすることで豊かになる」というものです。
ここからは魔法使いではなく、勇者一行に着目してみましょう。
勇者ヒンメルは、ダンジョン攻略をするときに、一つの階層をくまなく探索してから次の階層に進むというダンジョン攻略の観点からは無駄なことを楽しんでいました。
さらに、小さな人助けを楽しみ、バカみたいな思い出を作ることを大切にしていました。
アイゼンが「俺たちは魔王を打ち倒すのに、こんなことばかりしていていいのか」と言ったとき、ヒンメルは「アイゼンは、辛く苦しい旅がしたいのかい?僕はね、後で思い出したときに、バカみたいな旅だったなと笑い飛ばせるような旅がしたいんだ」といいました。
人生は、ある目的のために存在しているとすればその目的に沿わないものは無駄なことになってしまいます。
ヒンメルは、そういうものを持っている人からすれば、無駄なことを楽しむような旅をしようとしていたと言えます。
なぜ人は目的を持つのでしょうか。
このアニメには、二つの目的の形が描かれています。
強さへのこだわりから強さを求めるものと、他人のためだったり趣味で魔法をやっているものです。
前者の典型例は、魔族たちでしょう。
後者は、フリーレンやフェルン、そしてヴィアベルなどでしょうか。
ゼーリエはアニメを見た限りでは僕には判断できなかったです。
このアニメが推奨しているのは、後者ですね。
「戦いしか知らない魔法使いは皆不器用だ」というフリーレンのセリフにも表れています。(このセリフを考えるとゼーリエは前者かもしれませんが、まだ判断保留にしようかと)
旅と人生をアナロジーとして描くこのアニメにおいて、旅は我々がするような旅ではありませんでした。
何年もかける旅と、何泊かして帰ってくる旅とでは、旅の意味が違ってきます。
何泊かして帰る我々の旅は、まさに非日常で単に楽しいものです。
しかし、何年もかける旅というのは、旅自体が日常です。
そういう旅を楽しめることは、人生を楽しめることと同じだろうなと思い、今回はこんな記事になりました。
あとは遊びに本気になることに関して書いて、最後に僕が学んでいる哲学の話を書いて、終わろうと思います。
第二話で「別に魔法じゃなくたって」と言ったフェルンに対して、フリーレンは「それでも魔法を選んだ」といいました。
これは、遊びは本気になれるものだということをフェルンに教えた瞬間だったと思います。
多くの人は、「遊び」というと本気ではないもののことを指すと思っていると思います。そういう人は何かに本気になっているのです。
少し逆説的ですが、フリーレンやフェルンは何に対しても本気になっていません。だからこそ、魔法に本気になれるのです。
遊びだから本気にならないのではなく、遊びだからこそ普通の本気な人よりも本気になれるのです。
僕は、文化的な価値というものは、こういう本気な遊びによってしか生まれないと思います。
というわけで、哲学について書いて終わりにします。
哲学は、アリストテレスの時代からフレーゲの出現まで、存在自体は操作できないとされてきました。
なぜならば、全てのものは存在しているからです。
存在自体を指し示すことはできないのです。
だから、存在自体こそは究極の宇宙の真理だとされてきました。
なぜならば、全てのものは存在しているから、最も抽象的なものであると言えるからです。
まあ現代人なら「真空とか無とかあるじゃん」というと思うのですが、真空はパスカルが『科学論文集』においてパラダイムシフトを起こすまで存在しないと思われていました。
アリストテレスは、「自然は真空を嫌う」と言っていたのです。
存在自体は捉えられないというのが、アリストテレスだったのですが、もっと捉えにくいもの(抽象度の高いもの)があるということですね。
抽象度の高さというのは、固定しにくいものであると言えます。
その捉えにくさを探究する道は、寛容さへの道であり、こだわりをなくす道であり、正義など存在しないことを理解する道であり、何か自分ではないものになろうとしなくなる道なのです。
そして、そういう存在自体への認識であったり、より抽象度の高い次元への認識があるから、人間は劣等感から解放されて、本気で遊ぶことができるのだろうと思います。
キリスト教の聖書だけ引用して終わろうと思います(僕はクリスチャンではないので、布教目的で書いているわけではありません)。僕のことをよく知っている人は、僕が好きな詩篇19篇です。(キリスト教の話をさせると他の聖書箇所知らないのかと言われそうなほどこの話ばかりしています。笑)
1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。
神の愛は宇宙の全てに降り注いでいるから、「あなたはあなたのままいでいいんだよ」というのが、キリスト教のメッセージです。
本気で遊ぶことが文化的な価値だと言ったので、それに反することをキリスト教などの一神教が批判していることにも触れておきましょう。
それは、金利によってお金を稼ぐこと、そして神の名によってお金を稼ぐことです。
価値を創造していないのにお金を稼ぐのは、正しい経済の在り方ではなく、人類が文化的な価値を促進して成長していくことの妨げになるとイエスは考えたのでしょう。
多くの宗教者に聞かせてやりたいと思う人は、僕は絶対に責任を取りませんが(笑)、ぜひやってください。😂
「あなたは好きなことを好きなだけやっていいんだよ」というのは、あなたが価値を生み出し、自分の人生と世界を豊かにしていくための魔法の教えなのです。