葬送のフリーレンの感想②

今回は、久々にフリーレンを観たので、二度目の感想文を。

これからまた忙しくなるので、アニメを観るのも小説を読むのも、友達と遊ぶことさえなかなかできなくなりそうなので、最後に書きたい文章を書いていろんな学びに集中しようかと。

フリーレンのアニメは、いくつかのテーマが描かれているので、今回はそのうちの一つを。前回は好きなことをやることだったので、今回は永遠の命について。

人は死ぬので、永遠の命は手に入りません。「葬送のフリーレン」では何千年も生きるエルフであるフリーレンが主人公ですが、エルフもそのうち死にますから、永遠の命を持っていません。

しかし、死んでも残るものがあります。それは、記憶と機能です。

フリーレンは、勇者ヒンメルの仲間で、ヒンメルはフリーレンのことが好きでした。しかし、当時のフリーレンには恋愛感情が欠落していたので、彼の気持ちを理解することはありません。

儚い片想いをするヒンメルですが、彼は自分が早く死んで、その後もずっとフリーレンが生き続けることを思い、彼女が将来一人で孤独になることを見越して、自分の像を各地に残してもらいました。

ヒンメルは死にますが、フリーレンの記憶の中に生き続けるというわけですね。

そして、フリーレンが人間を理解し、自分の中のいろんな感情を知るにつれ、ヒンメルの心を理解していくことになります。

人間は二度死ぬわけです。

一度目は、その人が死んだとき。

二度目は、その人が生きている人の記憶から消える時です。

僕は、葬式には仏教的な意味はほとんどないと思いますが、しかし大切なものではあると思います。

それは死者を忘れないでいるためです。

「葬送のフリーレン」に登場する冒険者を志す登場人物たちは、「歴史になお残したい」というセリフをたまに口にします。

それは、人は二度死ぬということがわかっているからでしょう。

そして彼らは、偉業を成し遂げようとするのです。

しかし、それでもやはり死んでしまうわけですよね。これでは永遠の命ではありません。

永遠の命は、機能として社会に生き続けることで得られます。

ちなみにこれは密教的な生き方です。

雷で倒れて枯れてしまった木を指して、釈迦が弟子に「あの木は死んだのか」と問うたとき、弟子は「いえ、新しく芽吹いた芽の中に生き続けています」と答えます。

縁起(関係性)の中にあるということですね。

人は死にますが、その人が社会で果たした役割は生き続けます。

役割/機能ですね。

あらゆる存在は、全てあるとも言えるしないとも言えるというのが、「空」の思想です。

自分はあるのかと言われれば、あるとも言えるしないとも言えるわけです。

「葬送のフリーレン」では、まず存在が「あること」を前提として、それを記憶として残すことにこだわります。

しかし、ヒンメルは人のために何かをすることを大切にしてきました。

そして、ヒンメルが人助けをすることで、彼に憧れた後世の人間たちは、「勇者ヒンメルならこうした」と言って、人助けをするのです。

ヒンメルが人助けをすることは、彼が助けた人がまたこうして世界を作っていくことによって、ヒンメルの痕跡をこの世に残しているわけです。

ヒンメルは、魔王を倒したという偉業によっても名を残しましたが、それよりも長く彼を生き続けさせるのは、そういう人々の生き方であるということですね。

こうやって、機能として人の心の中に生き続けることが、人にとっての永遠の命です。

密教というのは、これを理解しているから、現世利益を重視するのです。

あの世に永遠の命を求めたり、自分を確固たる自己として保存した形で永遠の命を手に入れようとするのは、アートマン思想と言います。それは、真の自我があるという前提に立つ思想です。

そして、そういう意味での永遠の命を求める行為は、徹底的に利己的です。

どれほど利己的かというと、あの世で永遠の命を下さる神のために死ぬことができるほどにです。

しかし、仏教はそんな永遠の命などないということを知っています。そもそも全ての存在は空(あるとも言えるしないとも言える)ですから、自己の有にこだわることはありません。

悟ってから歩き続ける釈迦に、弟子が「何のために歩いているのですか」と問うたとき、釈迦は「歩くために歩く」と述べたのです。

「生きるために生きる」ということですね。

あの世で永遠の命を手にするためにではないのです。

そして、どんな豊かさも苦しさも空だと知っているわけですから、映画のように全てを愉しみながら生きるわけです。

さらに、初転法輪(教えを伝え始めたこと)以降の釈迦は、全ては縁起によって成り立っているということを人に伝えたわけですから、世界をよりよくしようとしたわけです。

釈迦から連綿と受け継がれる法脈に連なる僕の中にも、釈迦は生き続けているわけです。

このように、関係性の中で初めて永遠の命を手にすることができるわけです。

死の恐怖を克服するには、世のため人のために生きて、社会を豊かにすることです。

神のために死ねる信仰や精神力ではなく、どんな苦しみの中でも幻と知ってリラックスして愉しむことができる胆力(レジリエンス)を持ち、この世を豊かにすることができる人が、密教的に死の恐怖を克服する人です。

密教は、現世利益を得るための訓練を行います。

それは、自分の利益ではありません。世界の平和を願い、世界が豊かになることを願い、徹底的に自分以外の人の幸せのための力です。

自我は空だと悟るための利他業は、大乗仏教においては修行ですが、悟ったあとからが本当の人生であるという密教は、空の境地からあらゆる現実を創造しようとするわけです。

だから、空海は今ここにいながらにして悟ってしまえという「即身成仏」を伝えるわけです。

全ては空であると知ってから、この世をより良くするために生きるわけですね。

まさに勇者ヒンメルの生き方です。

アニメの最終話で、フリーレンはヒンメルに思いを馳せて、「大丈夫だよヒンメル。世界はちゃんと変わっている」と言います。

縁起を悟れば全ての苦しみから解放されるという上座部仏教から、空を体得するために利他業をする大乗仏教、そして悟ったあとに空の境地から現世利益をこの世にもたらすという密教。

悟った人などいませんから、どれが優れているとかはないのですが、「葬送のフリーレン」のヒンメルは、密教的な生き方によって永遠の命を手にしているなと思います。

最後に、普通の人であることについて。

半年に一度こんな記事を書いている僕も大概ですが(笑)、人はすごい人になろうとするとその利己心によって世界を捉える心が閉ざされてしまいます。

和光同塵。

聖人が自らの光を和(なご)ませて、塵(ちり)と同じようにして生きることですね。

老子も、空海も、和光同塵は人間の生き方の中で最も価値がある生き方であると言います。

宮本武蔵も「五輪書」の水の巻で、外からは気弱そうにみせて心の内側では強い心を持っていることが大切だと言います。

神社仏閣で自分の利益を願うような人は論外ですが(笑)、利他の精神によって現世利益を手にする能力を磨く人は、徹底的に利他的であり、感謝されようともしないで自分の能力も隠しすらするわけですね。笑

勇者パーティーの仲間の僧侶ハイターが、いいことをした時に「あの世で女神様に褒めてもらうため」というのは、常に自分を普通の人(利己的な人)に見せるためのセリフです。

すごい人になろうとせずに好きな魔法の探究をするフリーレン、そして役に立つことを重視する弟子のフェルン、「ヒンメルならこうした」と言ってヒンメルの意志を受け継ぐ人たち、そういう人たちによって描かれる「葬送のフリーレン」の世界は、まさに密教の世界だと思います。

前回の記事で書いた好きなことを好きなだけやって極めること、そして他人のために生きること、普通の人として生きること、フリーレンの教えは本当に大切だなと思います。

というわけで、アニメからも遊びからも少し距離を置いて(まあアニメ観たり遊んだりを遊んだりをやめる訳ではないのですが笑)、しばらくは自分磨きに専念ですかね〜

たまにしか書かないのに楽しみにしてくださっている方がいるらしいのですが、本当に気長に待っていてください。笑


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