もうみんな苦しんでる。苦しんでないのはおまえだけ
これは LipersInSlums Advent Calendar 2023 スラム社会実装の理論と実践〜もうみんな苦しんでる。苦しんでないのはおまえだけ〜 の 最後の記事である。
最近何もわからないと言うか、何もわからないのは最近に始まったことではないのだが、殊更わからなくなって来たため、自分が何者かすらよくわからなくなる前に書き留めておく。
早速だが、以下のふたつの文章を読み比べてもらいたい。
ジョンは顔を洗い、そして歯を磨いた。
ジョンが死に、そしてメアリーが死んだ。
文章の構造において両者に全く違いはない。しかし、わたしたちは2の文章を1の文章ように読まない。どういう事かと言うと、後者においては次のように了解していたりする。ピンと来なかったら後段を読んだ後また例文に戻ってきてください。
ジョンとメアリーが見知った顔であることなど一言も書いていないのだし、心痛でこの世を去る選択をするなどもうJacob Dylanの"One Headlight"の世界である。結句、わたしたちが因果関係と呼ぶものは、しばしば前後関係である。
もうひとつ卑近な例を挙げると"わたしが出勤した。そして雨が降った(或いは止んだ)"、雨男や晴れ女なんて昨今誰も信じていない筈なのに、素朴な了解として出勤と天候を結びつけてるようなモーメントがある。
"犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛んだらニュースになる"とはよく言ったもので、それが書かれている以上、何某かを語ろうとしているに違いない、つまり、報告価値(tellability, neportability)が高い筈であるとわたしたちは期待する。
1の文章は2の文章との差異が目立つように書いたのだが、1の文章を例えば"ジョンは(顔を洗うなどして一定の湿度がないと、歯磨きという洗顔よりやや複雑な行為を行うのが難しい)ので、顔を洗った後歯磨きをした"と読むことは出来る(因果関係を誤認する)。
だが、それをしないのはわたしたちの物語世界において特殊なケースだからである。現代日本において一般的に顔の湿度と行為の複雑さの関係に着目しないので、上述のような読解は理屈では可能だが、単に納得しないだけである。要するに腑に落ちない。
……このような話を物語論(ナラトロジー)と呼ぶ。
"ひとはなぜ"、或いは"世界はなぜ"という問いの意味は、"人間存在、或いは世界の絶対真理を探求したい"という純粋なものではなく、"ひとは、世界は、なぜわたしを、わたしだけを特権的にこっぴどく痛めつけるのか納得できない"である。
『言語の本質』において有名な"ヘレン・ケラーの洞察"が挙げられていたので紹介する。一般にサリバン先生が手に綴った"water"が水のという意味であると理解した話だと思われているが、これは間違いである。その時訪れた洞察とは、"すべての対象、モノにも行為にもモノの性質や様子にも名前がある"というものである。これをアブダクション推論と呼ぶ。以下に3つの推論と比較した例を紹介する(同書pp.208-209)。
これは演繹推論の例。
この袋の豆はすべて白い(規則)
これらの豆はすべてこの袋の豆である(事例)
ゆえに、これらの豆は白い(結果)
帰納推論の例。
これらの豆はこの袋の豆である(事例)
これらの豆は白い(結果)
ゆえに、この袋の豆はすべて白い(観察からの一般規則の導出)
そしてアブダクション推論の例。
この袋の豆はすべて白い(規則)
これらの豆は白い(結果)
ゆえに、これらの豆はこの袋から取り出されたものである(結果の由来を導出)
"演繹推論、帰納推論、アブダクション推論のうち、つねに正しい答えを導き出せるのは演繹推論だけである。帰納推論とアブダクション推論は常に正しい答えに辿り着ける訳ではない。(中略)しかし、この3つの推論のうち新しい知識を生むのは帰納推論とアブダクション推論である"。また、"あらかじめアブダクションによる仮説の提案がなくては、帰納は、その役割を果たすことができないのであり、仮説なしに帰納法的方法は成り立たない"(同書 pp.210-211)
駆け足に物語論とモダンな言語学を無理矢理接合させてみたのだが、『猫の地球儀』において"猫は物語的にしか生きられない"と苦しく悼んでいた通り、わたしたちはきっと物語的にしか生きられない。それもかなりの部分生得的に。
どうしてこんなことになっているのかわからない。言語習得には有利かも知れないが、不釣り合いな呪いを押し付けられている感覚もある。Flat Earth Societyはそのようなアブダクション/物語を共有することによって、一時的にでも溺れるものの藁になったのかも知れない。
彼らから何もかも奪う権利はわたしにはないだろう。たまたま仮説に現実が親切ではなかったというだけの話で、明日にでもわたしに起こらないとは言い切れない。ルーレットで99回ボールが赤に落ちた。"次は流石に黒だろう"、"今まで赤に落ちたから次も赤に決まっている"、どちらの物語も同等の権利として存在する。
"今まで負けて来たら今度は勝つだろう"、しかしおまえは負ける。この類の信念を公平世界の誤謬と呼ぶ。今回のガチャも次回のガチャもおまえは爆死する。そこに意味も理由もない。完璧な自殺を除いて。
ある属性の人間が苦しむのは家父長制があるからではなく、残酷な話だが一般的に求められる能力の欠如か、ステータスの振り間違えか、端的に生活苦である。そしてそれらはあらゆる性や人種に共通して見られるものである。
それでも何かしら意味があるとすれば、それでも賭け金をベットする理由があるとすれば、それは下記のような幽けきものであるかも知れない。
メリー・クリスマス。あなたが生き延びることを祈っている。